209 - 某戦争幼女 ◆soPc9yPWvw 2021/05/02(日) 22:43:58 ID:aC35t2Yw
西郷隆盛の思想は征韓論のむしろ逆でふ
征韓論に賛成していたのは板垣退助や木戸孝允あたりだと言われていまふ
そもそもの征韓論の発端は、日本が鎖国していた時も朝鮮とは国交を続けていたほどの仲だっただけに、いざ日本が開国した瞬間朝鮮にも開国しろって手のひら返しされたので、朝鮮としてもたまったものではなかったのでしょう
日本に突然執拗に開国を狭まれ、辟易した朝鮮が国書の受理を拒否りました
これは、国交断絶、すなわち日本を敵と見なすという意味であるため、明治政府の間で、無礼な朝鮮はポアもやむなしという思想が誕生しました
岩倉使節団の木戸孝允はこの北朝鮮の無礼な態度に憤慨して朝鮮をポア、板垣退助も議会でやたらと征韓論思想の武力開国論ばっかりを唱えるようになりました
これに対して西郷隆盛は根気強く通信使を派遣して国交回復を目指そうと唱えました
実際西郷を通信使に任命して朝鮮に派遣しようという雰囲気には一応なっていたみたいでふが、岩倉使節団の岩倉具視と大久保利通が西郷を朝鮮に送るのは時期尚早と批判したために西郷と大久保が揉めてしまいました
当職が で書いたのとは異なり、西郷はすぐに帰郷したわけではなく、その後一度岩倉と大久保の批判を加味して再び西郷を朝鮮に派遣する是非が議論され、そこでも西郷を派遣することが決定したそうでふ
しかし、岩倉と大久保が策略を練って強制的に西郷の派遣を白紙にした(岩倉具視を太政大臣にした)ため、西郷が明治政府の闇から去ることにしたというのが正しい流れのようでふ