206 - 某戦争幼女 ◆soPc9yPWvw 2021/05/01(土) 01:50:40 ID:GptwJZNO
西郷隆盛と大久保利通が朝鮮の開国方法を巡って大きく対立してしまったからでふ
大久保利通含む岩倉使節団が日本にいないとき、国会では朝鮮をどのように改革させるかを議論していた際、当時は西郷隆盛の言わば通信使を派遣して地道に説得しようという消極的な姿勢が主流でした
国会でもこの西郷の案で閣議決定がされていました
しかし、帰ってきた岩倉使節団が海外とのギャップを感じたために、開国はまだ早いと朝廷に報告し、国会での閣議がすべて白紙撤回になってしまいました
このことに憤慨した西郷は国会を離れ、地元薩摩に帰ってしまいました
大久保は西郷を止めることはありませんでした
というのも、薩摩藩は他の藩と比べても武士が多いなどといった武力の影響が大きい藩なだけあって、西郷の消極的な姿勢(=アンチ武力思想)に納得できなかったのではないかというのが一つでふ
もう一つは、大久保としては、明治時代になって用済みになった武士の行き先として朝鮮を武力で強制開国させるのにまだ利用できるのではと思っていたのではないのかと考えていまふ