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日本史学習スレ inバリュケー (249)

1 ニヒケー元コテ ◆AbDmhTCTZY 2021/06/21(月) 01:05:20.58 ID:D7AsB+rK0
日本史についての理解を深めましょう

26 名無しさん@破産CEO 2021/07/11(日) 17:33:48.38 ID:0i3R7Pst0
プラザ合意がなければ日本のバブル崩壊は無かったでしょうか?

27 しば塾 ◆2Vesh.FSeQ 2021/07/11(日) 17:35:35.60 ID:n9zlMcbb0
>>26
バブル景気はプラザ合意がきっかけで起こったんでプラザ合意がなければバブル景気がないからバブルの崩壊もないといえなくはないでしょう。

28 ニヒケー元コテ ◆AbDmhTCTZY 2021/07/13(火) 00:55:30.74 ID:qbX0DLMc0
プラザ合意がなければそもそもバブル時代は来ていなかったかと思いまふ
円高に恐れて低金利で通貨を刷りまくったので土地の価格が異常なほど高騰したのでバブル経済が起こりました
地価は絶対に下がらないという迷信(?)から土地神話が信じられていました
一応バブル景気が来た前提で話しをするなら、崩壊した直接的原因は日銀と政府の自爆でふ
あまりに膨らんだバブルを何とかして収束させたかったのに引き際をミスってバブルが弾けました
引き際さえ間違えていなければもう少し続いていたかもしれません

29 一般名無し質問者 2021/07/15(木) 15:50:11.64 ID:LAilJpv20
大隈重信が「教育はともかく政治は無能」と言われてるのは
・二十一ヶ条の要求
・工場払下げ概則失敗とインフレの大隈財政
・大審院は外国人判事任用と妥協した
・初代大隈内閣(憲政党)が内ゲバで短命に終わった
が原因であってますか?

30 ニヒケー元コテ ◆AbDmhTCTZY 2021/07/16(金) 14:43:57.64 ID:NnGsbvlq0
二十一ヶ条の要求は間違いないでしょう
これによって中国の対日感情を悪化させ、列強からも日本調子に乗ってるなという印象を植えつけてしまいました
要求なんてせずにおとなしく関東州返還しておけばまだ現在の評価は変わっていたかもしれません(ただ当時の世論は黙っていないでしょうが)
当職が思う良くなかった点は伊藤派閥の転覆を謀ろうとした(結果明治十四年の政変に繋がりまふ)こと、三菱とズブズブな関係にあったこと、憲政党での内部分裂により効力がいまいち発揮できなかったことだと思いまふ
あと外国人判事任用問題を引き金に大隈は暗殺されかけているので不満を持っていた人はいたでしょうね
領事裁判権撤廃を巡っての妥協案だったようでふが、当時の日本が領事裁判権の意味をいまいち理解していなかったように感じてなりません
今考えれば全く妥協案でもないでふが

31 一般名無し質問者 2021/07/20(火) 07:34:08.42 ID:5pAJCIYl0
関孝和はなぜ鎖国していた時代に高等数学を研究できたのでふか?

32 一般名無し質問者 2021/07/20(火) 23:11:31.80 ID:sF5dYZit0
漢語に訳されたものならばセーフで中国や日本の文献にあまり制限はなかったからです
彼は天才だから西洋の文献なしで探求できたでしょう
後に徳川吉宗の時代に学術的価値のある洋書の輸入は認められましたが、一切西洋の文字を入れることはできませんでした
あと西洋が学問的にすべての面で優れていたわけではないので

33 一般名無し質問者 2021/07/24(土) 22:17:32.59 ID:8+Gmc5OA0
第四次吉田内閣は不信認を喰らった(バカヤロー解散)にも関わらず何故直後第五次内閣として復活できたのでふか
やはり愚痴がマイクからダダ漏れしても吉田を望む国民が多かったのでしょうか

34 一般名無し質問者 2021/07/24(土) 22:49:28.67 ID:8+Gmc5OA0
>>33 誤:不信認 正:不信任

35 ニヒケー元コテ ◆AbDmhTCTZY 2021/07/25(日) 03:45:40.09 ID:eAs0jaVB0
知恵袋よりとりとり
https://tinyurl.com/2zmwrerf

36 一般名無し質問者 2021/07/29(木) 19:01:07.61 ID:r8fiwgBZ0
毛利元就はなぜ一代で西日本の有力戦国武将になったのでふか?

37 ガイジ滝口の武士 2021/07/30(金) 21:23:12.89 ID:Il+ifYT10
>>36
極めてざっくり言うと謀りだね(ドライ紋章)
具体的に言うと陶氏に有能な家臣を讒言でポアさせたりとか
この他に三本の矢(大嘘)の物語で言われるように人心掌握に強芋だった事と厳島の戦いの奇襲などに見られる戦略眼も挙げられます

38 一般名無し質問者 2021/08/03(火) 00:46:30.75 ID:qZWFWKr60
徳川家定が脳性麻痺だったとはマジなのでふか?

39 一般名無し質問者 2021/08/11(水) 10:23:28.90 ID:fU90PQvv0
応仁の乱についてわかりやすい本はありますか?

40 ニヒケー元コテ ◆AbDmhTCTZY 2021/08/12(木) 02:02:01.07 ID:EDQrv3870
>>38
その説が有力だと言われていまふ

>>39
参考までにどうぞ
https://ranking-best.net/2832

41 一般名無し質問者 2021/08/16(月) 13:58:29.11 ID:Asq/+C0K0
なぜ関東軍は日本政府の命令を無視し戦意拡大を図ったのでふか?

42 一般名無し質問者 2021/08/16(月) 14:05:47.41 ID:E0mT/ae1I
日本は強い国だと勝手に自惚れていたからです

43 一般名無し質問者 2021/08/16(月) 14:52:17.34 ID:3gpuUf++0
当時の日本は大恐慌、昭和金融恐慌を受けて特に都市部と田舎の格差が極端に広がっていました
特に田舎出身者の多い軍隊ではこれは真剣に捉えられていたようで、彼らは占領地の拡大によってこの問題の解決を志向します
その中に例えば満蒙開拓団があり、これは要するに現地の人を追い出して日本人を入植させ仕事を与えようと試みたものです
http://www.gendaiza.org/aliansa/lib/21-02.html
また日本から十分な資金を与えられていなかったらしく、足りない分を現地の人々に麻薬を売りつけることで自活します
これは最盛期には関東軍の収益の半分に及んでいたといわれ、軍板では日の丸を麻薬の旗だと勘違いしてた人の話が良くネタにされます
こういった迷惑行為はいくら中国が内戦状態にあったとはいえ余計混乱すると鬱陶しがられ、幸か不幸か利権を求める米国などの諸国が大量の支援を送ってくれていたので日中戦争になるのですが
いくら現地人に嫌われても本国が不景気で大変な中今更やめるわけにはいかないのでそうなりました

44 一般名無し質問者 2021/08/16(月) 15:02:42.78 ID:Me0pTzZYI
板垣征四郎、石原莞爾率いる陸軍が積極でに大陸進出を目指しました
その結果が満州事変です
当時の日本政府は日本の中国進出に対してアメリカがあからさまに警戒色を発していたので慎重に行動すべきと考えていたようです(アメリカは自国で南北戦争のゴタゴタがありました)
事実満州事変は成功に終わったので、以降陸軍の暴走は止められなくなってしまいました

45 一般名無し質問者 2021/08/16(月) 15:03:31.24 ID:Me0pTzZYI
積極て→積極的
当職無能

46 一般名無し質問者 2021/08/17(火) 14:54:53.93 ID:xXdLh0B00
なぜ池田首相は貧乏人は麦を食えなどと言ったのでうか?

47 一般名無し質問者 2021/08/18(水) 18:49:32.86 ID:WffgBaFWi
説明しようかと思いましたがmuyoぺの記事が詳細に書かれてるのでそれを見るのが良いと思います

48 一般名無し質問者 2021/08/19(木) 10:07:56.01 ID:dxhJ0pMC0
なぜ江戸末期に攘夷を唱えていた人達ざ明治時代になると脱亜入欧と言い出したんでふか?
手のひらクルクル過ぎやろ

49 一般名無し質問者 2021/08/19(木) 10:31:35.27 ID:uS3SePRQI
正に井の中の蛙大海を知らずです
いざ開国して"日本遅れてるやん"と痛感したら脱亜入欧思想にコロッと変わってもおかしくないかと思います

50 一般名無し質問者 2021/08/20(金) 09:58:01.39 ID:6EDK67Id0
なぜ伊能忠敬は隠居の地図作りにあそこまでの情熱を傾けたのでふか?

51 ニヒケー元コテ ◆AbDmhTCTZY 2021/08/21(土) 15:07:01.64 ID:bLr3V6EH0
江戸時代には暦の改訂の動きもあり、伊能忠敬は年下の天文学者の高橋至時に弟子入りして天文学や測量について学びました
江戸幕府が取り組もうとしていた改暦計画に自身も参加したいと50代の伊能忠敬は思ったのでしょう
実際伊能忠敬は隠居前から独学で暦学を学んでいたことも知られていまふ
あと測量を始めた時期はちょうどラクスマンの根室入港や択捉島への上陸事件といったロシアからの影響もあり、師匠の高橋至時は幕府に対して蝦夷地の正確な地図を作る必要性も訴えていまふ
その事業を幕府は了承し、伊能忠敬が抜粋されたのでふ

52 一般名無し質問者 2021/08/25(水) 10:52:10.25 ID:iB28+ttF0
なぜ三内丸山遺跡では何百年も縄文人が住んでいたのでふか?

53 ニヒケー元コテ ◆AbDmhTCTZY 2021/08/26(木) 02:38:18.11 ID:nqfLTGKK0
彼らは共同体(ムラ)をつくり、定住しようとさまざまな知恵をつけていったからでふ
縄文時代早期はちょうど氷河期が終わり温暖化を始めた時期であったために周囲で環境変化が起こりました
更に日本特有の春夏秋冬の自然がもたらす恩恵の影響も強く受けました
これによって食料や動植物が豊富に摂取できるようになったために何百年も住み続けることが可能となったのでふ

54 一般名無し質問者 2021/08/29(日) 00:35:01.30 ID:Nq2c11Kb0
なぜ足利尊氏は幕府を開くことができたのでふか?

55 ニヒケー元コテ ◆AbDmhTCTZY 2021/08/29(日) 03:43:34.83 ID:D0lM40/80
足利尊氏が鎌倉幕府を崩壊させた後は後醍醐天皇による建武の新政が始まるのでふが、後醍醐天皇が天皇親政を行ったり、恩賞が十分行き届かなかった御家人がいたりと、多くの御家人にとっては都合の悪い制度でした
しかも倒幕後は関係が良かった後醍醐天皇と足利尊氏との関係性も、後醍醐天皇が楠木正成や新田義貞と仲良くし出してから次第に亀裂が入ってきました
そして建武の新政が始まってから3年後に後醍醐天皇に不満を持つ御家人と共に足利尊氏が後醍醐天皇の追放に成功し、足利尊氏が新しく立てた天皇から征夷大将軍に任命してもった後に室町幕府を開きました
成功した理由は、足利尊氏を慕う御家人が多かったことにあるかと思いまふ

56 一般名無し質問者 2021/08/29(日) 12:55:51.03 ID:FClcRzvTI
南部仏印進駐を行わなければ太平洋戦争は回避できましたか?

57 一般名無し質問者 2021/08/31(火) 04:34:54.07 ID:EeCULSydI
南部仏印進駐でアメリカを怒らせたのは事実ですが、太平洋戦争の直接的な原因ではないかと思います
本当に太平洋戦争を防ぐのなら満州事変や盧溝橋事件にまで遡る必要があるかもしれません
援蒋ルート遮断は中国の軍事力低下は見込めても、別の大きな敵を作る可能性があったんですよね
今で言うところのタリバンは弱められるけどアルカイダを敵に回す...みたいな(あくまでも一例なので現実での話はまた別です)

58 一般名無し質問者 2021/09/03(金) 05:08:38.05 ID:/8W7cJYS0
なぜ朝鮮半島はアメリカとソ連が分割統治したのに日本は分割統治されなかったのでふか?

59 一般名無し質問者 2021/09/03(金) 08:03:05.63 ID:RCjHMsVc0
>>58 主に日本と戦ったのはアメリカなので他国はあまり口出しできずそのアメリカは天皇を利用して統治しようとしたため

60 しば塾 ◆2Vesh.FSeQ 2021/09/03(金) 12:24:25.87 ID:lu/0B79H0
>>58
朝鮮半島にソ連軍が侵攻した日本本土には侵攻してないからです
朝鮮半島とソ連は直接国境を接していたので対日参戦後すぐに侵攻しました
一方で日本本土とソ連との間には南樺太と千島列島があったので侵攻が遅れ
北海道上陸前にはアメリカ軍がすでに来ていたので日本は分割統治をされませんでした。

61 一般名無し質問者 2021/09/07(火) 12:52:15.30 ID:q+gJ/U7L0
なぜ里見義堯は注目されないのか

62 一般名無し質問者 2021/09/07(火) 21:18:52.27 ID:WqhDxG0cI
後北条氏と覇権争いで揉めに揉めて房総半島辺りしか勢力圏にできなかったからです

63 一般名無し質問者 2021/09/08(水) 19:41:16.03 ID:DP94Tq8j0
防人が主に東国から徴収された理由が分かりません
消耗や行き倒れのリスクを鑑みて中国地方辺りの西国から持ってきた方が合理的な筈です(特に軍事は最重要事項ですし)

64 一般名無し質問者 2021/09/08(水) 20:13:45.71 ID:yVBis+Gc0
本来の住所から遠方なため
脱走しづらくさせるためと考えることもできます

65 一般名無し質問者 2021/09/09(木) 08:08:09.29 ID:mDY470K50
何故坂本龍馬は過大評価と言われているのでしょうか

66 ニヒケー元コテ ◆AbDmhTCTZY 2021/09/11(土) 10:22:03.28 ID:5961MBIc0
現在の坂本龍馬の評価は司馬遼太郎による創作のイメージと混合している感はありまふ
例えば薩長同盟は特別坂本龍馬である必要はありませんでしたし、何なら大半は西郷隆盛の指示に従わされていたと言った方がよいかもしれません(要するに龍馬の仲裁で同盟ができたというのは事実と異なりまふ)
それに坂本龍馬と勝海舟の関係は周知の通りでふが、一方西郷隆盛との関係性はあまりよろしくありませんでした
まずその辺から事実と異なりまふ
次に大政奉還に一役買ったというのも無理がありまふ
坂本龍馬が大政奉還の必要性を訴えたとされる船中八策は後世の作り物やジョン万次郎のアメリカの政体を翻訳しただけと言われているので、坂本龍馬本人の思想と考えることは難しく、そのため大政奉還との関係性も薄いように感じまふ
あと坂本龍馬は自由人と言うよりかはニヒリストに近い人物ではあるのでその辺りも創作要素が強いかと思いまふ

67 一般名無し質問者 2021/09/12(日) 10:18:43.45 ID:wkHCDohp0
なぜ原敬は暗殺されたのでふか?

68 ガイジ滝口の武士 2021/09/12(日) 20:08:54.49 ID:+0ooYrpp0
>>67 最初は初の本格政党内閣という事で「平民宰相」として期待されていましたが普通選挙には消極的だったり森戸事件などで社会主義関係の学問を断圧した、政党(立憲政友会)の腐敗などから不満が募っていきました

69 一般名無し質問者 2021/09/12(日) 20:37:09.41 ID:S5jAOwr00
原内閣の下様々な汚職事件が起こったり普通選挙法に反対したことから民衆の反発を招いたからでふ

日本初の本格的な政党内閣といわれる原内閣ですがそもそも当時選挙で投票するには一定の税金を納める必要がありました
原内閣の与党である立憲政友会は産業の振興や鉄道の建設、軍拡などを推進して資本家に利益を与えたため富裕層の支持を得て党勢を拡大していました
しかし大戦景気の反動で起こった戦後恐慌で民衆の生活は苦しくなっていました
先述の通り当時は投票する際に税金を納める必要があったためそういった民衆の声は政治に反映しづらい環境でした
なので普通選挙法を成立させて納税しなくても投票できるようにしようという流れがあったのですが立憲政友会や原首相はこれを拒否
一方党勢を拡大する過程で汚職も行われて野党はこれらを攻撃、民衆は「平民宰相」と期待していたのに上級国民を優遇していると不信感を募らせました
原敬を暗殺した中岡艮一も彼にこういった不満を抱いていたと供述しています

70 一般名無し質問者 2021/09/12(日) 20:37:41.21 ID:S5jAOwr00
書き込みありましたね すみません

71 一般名無し質問者 2021/09/15(水) 22:38:33.24 ID:LHvIbkDP0
なぜ中曽根は国鉄を民営化できたの?

72 一般名無し質問者 2021/09/17(金) 09:49:49.42 ID:zdvtduF90
神風がなければ元は日本を制圧できたのでしょうか?

73 ZEUS208 ◆CJh/Tcvz2E 2021/09/17(金) 12:16:51.23 ID:l2oKw2Db0
そもそも元軍が優勢の状況にも関わらず海の上で神風直撃までダラダラしてたのは考えにくいです
攻めあぐねて海の上にいたか、もしくは陸から追い返されて船で逃げ出した際に神風が直撃したと考えるのが普通です
なので元々侵攻が上手く行ってなかったところに神風でトドメを刺されたのでしょう
神風があたかも奇跡の様に言われるのは、神社が幕府に恩をせびるために神へ祈ったおかげだと主張したことが大きいかとも思います

74 一般名無し質問者 2021/09/17(金) 12:50:22.22 ID:jRSJae0mI
>>71
国鉄民営化の真の目的は労働組合遠を牽制することでした
政府関係者同士で利害関係が一致したため割と強引にでも実行できたのでしょう

75 一般名無し質問者 2021/09/19(日) 09:42:38.14 ID:pI941mMB0
なぜ日本は他のアジア諸国のようにアメリカやイギリスの植民地にならなかったのでしょうか?

76 一般名無し質問者 2021/09/23(木) 00:21:04.93 ID:qcalwOfD0
なぜ井原西鶴は日本永代蔵や世間胸算用といった経済をテーマにした作品を書いたのでふか?

77 一般名無し質問者 2021/09/25(土) 22:26:46.24 ID:YUrR9mmW0
幕末に武器を輸入したりと貿易を盛んに行ったから
アヘン禁輸を条約に盛り込むファインプレー
日米修好通商条約が植民地化を防いだと言っても過言ではない

78 一般名無し質問者 2021/09/26(日) 16:39:44.38 ID:CcSaNjeq0
名主と大名田堵の違いが判りません

79 里見義堯 ◆fkubBbqJnQ 2021/09/26(日) 18:10:46.43 ID:iv3tJCv90
>>78
名主と大名田堵の違いはほとんどありません
とりとり

80 ニヒケー元コテ ◆AbDmhTCTZY 2021/09/27(月) 02:26:56.94 ID:vb/aPFH00
>>76
井原西鶴は大阪の商家の家に生まれ、昔は俳諧師として活躍し、後に浮世草子作者へと転身しました(始めに書いたのが好色一代男でふ)
日本永代蔵は日本で最初の経済をテーマにした小説だと言われていまふ
なぜ彼が経済をテーマにしたものを書いたかに関しては想像しかできませんが、彼が商家育ちだったということと、当時は好色物の作者が多かったため、途中から差別化を図るために別のジャンルに変えたのだと思いまふ
実際井原西鶴は好色物と日本永代蔵や世間胸算用といった町人物以外にも雑話物や武家物といった作品も遺していまふ

81 一般名無し質問者 2021/09/27(月) 16:32:11.64 ID:r8xR56OdI
律令制下の兵部省と五衛府はどういった差があるのでふか?

82 一般名無し質問者 2021/09/28(火) 19:44:23.61 ID:fL6WUR6m0
戦国時代の東北地域がやたらと群雄割拠状態のままで
他の地域みたいに巨大な勢力に成長する大名がなかなか育たなかったのは何か理由があるのでふか?

83 一般名無し質問者 2021/09/29(水) 01:17:06.77 ID:wJmTpf1T0
平清盛がもし源頼朝の助命をしなかった場合その後の平家は安泰だったのでふか?

84 一般名無し質問者 2021/09/30(木) 19:43:26.73 ID:79bBywTU0
本能寺の変は光秀の独断なのでふか?

85 一般名無し質問者 2021/10/01(金) 00:16:51.51 ID:7oPwjv9j0
>>84
まだまだ謎は多いですがいつか読んだ「歴史街道」では計画的犯行で根回ししてた説が挙げられてました

86 一般名無し質問者 2021/10/02(土) 20:53:28.50 ID:m4TOMGAz0
金印をもらった奴国は邪馬台国に滅ぼされたのでふか?

87 ニヒケー元コテ ◆AbDmhTCTZY 2021/10/04(月) 02:50:10.57 ID:YFoNfd8c0
>>82
確かに伊達家だけは少し事情が違いまふからね
豊臣秀吉が陸奥地方にまで手を出す前までは割と伊達家が好き勝手していたからというのがあるかもしれません
例えば陸奥南部氏は津軽為信の裏切り行為(結果津軽氏が独立)や檜山安東氏や浪岡北畠氏などとのいざこざがあって(頑張った方ではあるとは思うが)あまり羽を伸ばすことができませんでした
南部の支配した領地が広大が故に中央集権化が進みませんでした
九戸政実の乱が豊臣軍に鎮圧させられてからは目立ったことはありませんね
最上氏も伊達家と揉めて山形に留まったため、戦国時代においてはあまり注目されないような気がしまふ
原因はやはり伊達家・・・
蠣崎氏(後の松前氏)は檜山安東氏から独立してアイヌと貿易やったりコシャマインと揉めたりして何かと忙しかったからというのと蠣崎慶広は豊臣から北海道全域の支配権を認められたため、勢力拡大を図るための南下は考えていなかったのかもしれません
あくまでも当職の一意見でふので参考までに

88 ニヒケー元コテ ◆AbDmhTCTZY 2021/10/04(月) 03:04:39.91 ID:mhWWspVu0
>>86
奴国は1世紀から3世紀にかけて現在の福岡辺りにあったと考えられる小国の事でふ
一方邪馬台国が現在のどこにあるのかは定かではない(近畿説と九州説で大きく分かれていまふので)以上、奴国が邪馬台国によって滅ぼされたというのは一概に正解とは言えませんし、
仮に九州にあったところで奴国がなくなった理由が邪馬台国と因果があるのかに関しては断言ができません
邪馬台国は当時の日本(倭国)にあった約100個の国のうち30個ほどを支配していたと歴史書にあるため、奴国は邪馬台国の支配下になってしまった可能性はゼロではないのかな?と憶測まではできまふが・・・
要するに一つ確実に言えることは大和政権が広まった時代までには確実に滅んだということまででふ

89 一般名無し質問者 2021/10/04(月) 17:45:52.96 ID:ofrVwcIMI
>>83
平清盛の政治に不満をもつ武家大勢いましたので頼朝じゃない人がどこかのタイミングでどのみち反乱を起こしていたと思うので安泰にはならないかと
ただ反乱の首謀者が頼朝レベルなくて平家が買っていたら政治はさらに悲惨な事になっていたでしょう
藤原家の二番煎じじゃそりゃねぇ...
政治に関しては悪評の平清盛ですが、日宋貿易で貨幣経済と自由貿易を行った事や大輪田泊を整備して福原京へ遷都をした辺り、商いの才能はありました

90 一般名無し質問者 2021/10/04(月) 17:50:18.51 ID:ofrVwcIMI
ただ反乱の首謀者が頼朝のような強い人じゃなくて平家がそれに勝っていたら政治はさらに悲惨な事になっていたでしょう

91 ニヒケー元コテ ◆AbDmhTCTZY 2021/10/05(火) 03:20:24.39 ID:Z+IjNdEC0
当職も>>89師に近い考えでふ
>>90にもある通り交易面での政策は良いと思うのでふが、平安時代末頃の武士の多くが荘園の管理をして生活していたのでふが、
荘園の大本の貸主は寺院であり、その寺院を保有しているのが貴族サイドで権力を持っていた国司でふので武士も実は農民同様、税の取り立てに関して嫌な思いをしました
反発すれば最悪荘園の管理権を奪われることもあったようで、武士の権力は安定したものではありませんでした
平清盛が政界進出した際に多くの武士は威張り散らしている国司に対して何か政策を施すことで武士の権力を安定させてくれるやろ、
清盛さんは武士サイドの人間だから武士の為を思った世の中に変えてくれるだろうなと期待したのもつかの間、
清盛は太政大臣になって完全に貴族サイドに立って多くの荘園を手に入れ、更には自分たちの一族(男)は国司に、娘は高倉天皇の后にすることで一族をを天皇家にまで関係を持たせようと、
藤原家と何も変わらないことをしたわけでふので武士たちは期待を裏切られて大憤慨間違いなしでしょう
だからこそ生まれた言葉が「平氏にあらずんば人にあらず」なんでふよね
実権に溺れた平家の言葉と考えるとまた違った見方もできまふ
こうして平家と関係の薄い武士は打倒平家へ方向を向けるようになりました
加えて皇室や摂関、寺院などの所謂旧勢力も平家に辟易して協力したとも言われておりまふ
一方貴族サイドからも平清盛へ不満を募らせるようになったのも平家衰退の原因にも繋がりまふ
>>89にもある福原京遷都の目的は大輪田泊との距離を近づけて経済力を高めるため、 源頼政や寺院などによる不安要素を払拭するためとされているのでふが、この遷都を巡っても平安京の貴族と反発していまふ
政治に関しても後白河上皇から政治の権力を奪って自分勝手にやったというのも貴族が不満を募らせた原因でふね
要するに武士からも貴族からも皇室からも反感を買ったため、頼朝云々関係なく、安泰な世の中にはなっていなかったと思いまふ

92 一般名無し質問者 2021/10/07(木) 11:02:48.84 ID:M+Wz02cD0
>>77
ノルマントン号で悪名高い日米修好通商条約でふが役に立っていたんやなあ
逆に朝鮮はなぜ同じような状況で植民地化されたんや?

93 ニヒケー元コテ ◆AbDmhTCTZY 2021/10/08(金) 23:57:35.31 ID:FGpRgPzl0
>>92
伊藤博文(初代韓国統監)が韓国併合に関しては慎重派の立場だっただけに何ともいえませんわ・・・
1905年の第二次日韓協約で外交権が日本に取り上げられた時点で既に属国だったんでふよね、実は
そんでもってハーグ密使事件が起こって高宗退位に第三次日韓協約で内政権まで没収、しかも韓国軍解体&日本軍駐留を正当化、ここまで来るともう韓国は抗う術がないから韓国統合できちゃうんじゃね?という考えが広まっていったわけであって
桂太郎内閣中心に韓国統合推進を進める中、ちょうど韓国統合慎重派の伊藤博文が安重根に暗殺されたのでもう歯止めが効かなくなってしまいました
韓国側は日本に対し、合併は認めるが対等な立場でいようという対等合併を唱えた最後の最後の悪足掻き程度の声明書を上奏するも秒殺で拒否
遂に1910/8/29から1945/9/09までの35年以上の日本による植民地支配が始まりました
この流れからすると日露戦争まで遡らないと避けようがないでふね・・・
それか伊藤博文が暗殺されていなければせめてもの対等合併は実現していたかもしれないのに・・・安重根は何ちゅうことしでかしたんだ(尚韓国では抗日運動の英雄扱いされている模様)

94 一般名無し質問者 2021/10/10(日) 00:21:47.87 ID:0ZJ59abw0
関東軍があそこまで暴走した理由を知りたいです

95 一般名無し質問者 2021/10/10(日) 00:27:15.56 ID:JK1r2mXPI
>>41-44で関東軍についての書き込みがありますを

96 しば塾 ◆2Vesh.FSeQ 2021/10/10(日) 11:29:20.97 ID:bmDl1o1v0
>>92
朝鮮が植民地化された大きな理由として清朝の朝貢国となったあたりから強まった
小中華思想の影響で欧米との開国に否定的であったことので近代化することに失敗したことや
当時の朝鮮では国王の周りで権力争いが起こっていて父である大院君と王妃である
閔妃が対立してましたが両者とも近代化よりも政治争いを優先し価値ために
清や日本やロシアといった外国勢力を使おうとしてたのでそれらの国々による
内政干渉が起こり結果として独立性が徐々に失われていったことが理由として挙げられます
>>93
多分安重根が暗殺事件を起こしていようと起こしていまいと結果は変わらなかったと
思います、伊藤は暗殺される半年前に桂の方針に賛成しておりそれに向けて
動いていたのでかつては慎重派でしたが暗殺直前はそうではありませんでした
ちなみに安重根が伊藤博文を暗殺した理由は彼の謎の理論のためで
彼は日本の天皇家のことを非常に敬っており伊藤博文が邪魔をするせいで
天皇が本来行いたいことを行えずまた天皇の意思に反して韓国の
独立を奪っていると考えてました、なので伊藤博文のことを
日韓両国における大逆人としそればかりか孝明天皇の死は
伊藤が暗殺したことによるものだと主張し伊藤の暗殺を
正当化してました


97 一般名無し質問者 2021/10/10(日) 12:28:37.81 ID:3Uv/FJ+L0
>小中華思想
日本の尊皇攘夷運動とも違うのでふか?
>権力争い
14代将軍が一橋慶喜だったら違っていたのでふか?
>政治争いに外国勢力を使う
長州藩がイギリスから武器買ってませんでした?

なぜ諸外国は李氏朝鮮にしたように日本に内政干渉しなかったのでふか?
幕末に強い芋お答えください

98 しば塾 ◆2Vesh.FSeQ 2021/10/10(日) 13:27:06.13 ID:bmDl1o1v0
>>97
小中華思想とは何かというと元々中華思想という中国にある考えがあって
大まかに言えば中国が徳のある文明的な国で遠ざかるごとに野蛮になっていくという物です
しかし朝鮮半島では一番中国に近い朝貢国であることから数ある中華以外の
野蛮人の中では最も徳がある存在で中国ほどではないものの他とは一線をかす
ものだという考えがありました。ところが清朝が成立してからこの考えが
変わります、というのも清朝を建国した女真族は中華思想に置いてかなり下の
ランクに位置付けれていたので朝鮮としては最も徳の高い中国が野蛮人によって
穢され消えてしまったと考えました。そのため中華の真の後継者は野蛮人である
清朝ではなく2番目に徳の高い我らが朝鮮であると考えたのです
これが小中華思想です
外国勢力を使うといっても朝鮮の場合武器を買うなどという生優しいものでなく
首都に清朝の軍隊を入れて対抗する派閥に攻撃してもらったり
国王自らロシア公使館に逃げ込んで身柄を保護してもらうようロシアに頼み
政務をロシア公使館で行うなどおよそ主権国家とは思えない使い方をしてます

99 一般名無し質問者 2021/10/10(日) 15:51:06.75 ID:CEYODG1d0
>>95
確認していませんでした
当職 注意力唐澤
猛省します

100 一般名無し質問者 2021/10/10(日) 17:51:15.33 ID:NdiQYYDR0
>>81の質問にもお答えいただけると嬉しいでふ

101 一般名無し質問者 2021/10/10(日) 17:59:27.99 ID:m+ZdamEd0
・兵部省
律令制下で軍事の一切を司る八省の一つ

・五衛府
天皇の日常や行幸時に付き添い、身辺警護、宮城の警護、京内の夜間巡回などを主な任務とする律令制下の中央軍事組織
諸国には軍団という軍事組織が置かれた

こうしてみると全く違う組織だと思いまふ

102 一般名無し質問者 2021/10/11(月) 13:48:16.97 ID:V0dbU/NjI
柳田國男が民芸品に着目した理由は何ですか?

103 ニヒケー元コテ ◆AbDmhTCTZY 2021/10/12(火) 02:56:35.57 ID:mxnzf7HP0
民俗学というのは、日本人の伝統的な共同生活の中にある伝承や信仰、或いは文化といったものの研究を通してそこに現れる日本人本来の姿を探求しようという学問でふ
その民謡学の先駆けとなるのが柳田国男であり、柳田國男は文字資料に記録に残っていないごく一般の名も無き人々のことを常民と呼び、岩手県の遠野などの地を訪れることで常民の生活や伝承・信仰、文化を通して明らかにしていこうとしました
次いで宗教学者の柳宗悦はバーナード・リーチ(イギリスの陶芸家で、日本を度々訪れ、民芸運動や白樺派に影響を与えたことで知られていまふ)の影響を受け、
常民の用いる無名の工人により作られた生活道具(民芸品)にこそ真の美徳があると考え、民芸品の発掘や再評価をしました
柳宗悦の考えの背景には富国強兵や植民地支配を急速に進めていく近代日本のエスノセントリズム(自文化中心主義)に対する批判の姿勢でありました
恐らく柳田国男と柳宗悦を勘違いされているかと思いまふので、蛇足も兼ねて回答させていただきました

104 一般名無し質問者 2021/10/13(水) 14:30:29.55 ID:DHG+kJsEI
平将門が関東で英雄視されているのは本当ですか?

105 一般名無し質問者 2021/10/13(水) 22:27:56.70 ID:XC8eQJxR0
もしマリアナ沖海戦で日本艦隊が壊滅した場合その後の日本はどうなっていたのでふか?

106 一般名無し質問者 2021/10/14(木) 07:04:36.51 ID:rTVCfHS90
最近では石田三成は西軍の首脳部からスケープゴートにされたという説も出ていますが実際のところどうなのでふか?
毛利輝元は意外と策謀家のようですが

107 一般名無し質問者 2021/10/17(日) 13:23:45.51 ID:oa/CQgNL0
戦国時代の鳥取城の籠城戦について秀吉方が米を買い占めた結果
戦が始まった時には城中に米が殆どなく飢餓地獄になったというのが通説になっていますがこれは本当なのでふか?
織田と毛利の戦いが差し迫ってる中で城方は兵糧の貯蔵・管理すら怠っていたというのは信じがたい愚挙でふが

108 虚無呼弖 ◆AbDmhTCTZY 2021/10/18(月) 03:38:28.70 ID:U4Hr7C3C0
>>104
平将門は教科書では朝廷に対して反乱(平将門の乱)を起こした反逆者として悪く書かれているのですが、実際は正義感が強く役人の贈収賄を許しておけない性格でしょっちゅう役人と揉めてはその度に朝廷にマークされていました
ただ民衆からの評判はよかったようで、豪族ながら民衆からは正義のヒーローのような見方をされていたと考えてもよいかもしれません
現在の平将門は途轍のもない呪いを備えているとして畏れ敬われています
大手町の一角にある将門塚は過去数回撤去されかけましたが、撤去しようとした関係者に病人や怪我人が相次ぎ、更には死者も出ているので撤去しようにも撤去できない状態で現在もオフィスビルがそびえ立つ近代文明の中で健在しております

>>105
実際に壊滅したんだよなあ・・・
壊滅せず勝利した場合の打ち間違いかと思います

109 虚無呼弖 ◆AbDmhTCTZY 2021/10/18(月) 04:11:30.41 ID:S1vHmE0W0
>>106
当職も関ヶ原の戦いの真実を知っているわけではないのでこれが絶対の正解はないのですが、その可能性はゼロではないかと思います
西軍に裏切りが多いというのも必ずしも三成の人望が原因だとは思いません
一族の中で優先すべきなのはやはり利益で、西軍にいて一族に不利益を被ってしまうようなら三成を切ってしまおう、はたまた家康側の味方となって三成をスケープゴートするのが都合の良いと考えたのかもしれません

>>107
前年が凶作であったことや刈田狼藉を行ったこと、更に兵糧攻めにすることも視野に入れて鳥取城への食料輸送ルートと援軍の侵入ルートをかなり早い段階で遮断して完璧なまでの包囲を実現しました
そのため吉川経家は兵糧攻めされていることには早くから気付いていましたが、秀吉が先手を打っており為す術がありませんでした
鳥取城の籠城戦は米を買い占めた以外にも要因はあるため、概ね事実だとされています

110 一般名無し質問者 2021/10/18(月) 11:21:17.81 ID:4ZK8CK/a0
>>108
史実のマリアナ沖海戦で沈んだ艦船は意外にも大鳳、翔鶴、飛鷹の三隻だけでふ
しかも大鳳と翔鶴は潜水艦の雷撃によって沈んだので、史実のマリアナ沖海戦において航空攻撃で沈んだのは飛鷹だけでふ
大敗だったにも関わらず艦船の被害がそこまで大きくないのは米軍の追撃が手緩かったためとされていまふ
(実際、追撃が手緩かったために第五艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将への批判が相次いでいました)

>>105は退却時に米軍の追撃を受けて航空隊だけでなく艦隊も壊滅した場合を想定しているのでしょう

111 一般名無し質問者 2021/10/18(月) 12:45:57.58 ID:Kq26ntDYI
アメリカと比べると壊滅ではあったからこれは捉え方の問題かもしれませんね
なら当職は日本がマリアナ沖海戦に勝った後の世界線について質問してみたいと思います

112 一般名無し質問者 2021/10/18(月) 19:01:24.82 ID:4waDl/y00
日本軍の中ではハワイを手っ取り早く抑えて有利な条件で講和するという意見があったようですが
それは可能だったのでしょうか?

113 一般名無し質問者 2021/10/18(月) 20:09:54.59 ID:53RdCnIi0
承久の乱は後鳥羽天皇は鎌倉幕府ではなくあくまで北条義時のみを朝敵として名指ししてたみたいでふが
実際のところ幕府そのものを排除したかったのか義時さえ除外できれば満足だったのかどっちなのでふか?

114 スッカー 2021/10/18(月) 20:37:46.79 ID:W3j5Pfu60
>>113
単に幕府の代表者である義時個人を朝敵とする事で鎌倉武士が離反する事を期待したのでは無いかと思われます
実際将軍の軽視などを理由に挙げ鎌倉幕府の一員である守護・地頭にも文書を送付しており在京御家人らは官軍に参加しています
勿論義時(他首脳陣)を排除しゆくゆくは勢力を削いで鎌倉の武士を統制下に置く事が最終目的ではあったでしょう
元々幕府内には北条氏の台頭を苦々しく思う勢力が存在する事は朝廷側も把握していたでしょうから義時討伐の宣旨に呼応して鎌倉の有力御家人が挙兵する事も想定していた可能性があります

115 虚無呼弖 ◆AbDmhTCTZY 2021/10/20(水) 02:28:19.96 ID:QegMod5j0
>>110
>>105師の質問の意図を勘違いしていました
当職無能 頭ガンジョンジョン

>>111
本土決戦の時期が若干遅くなるだけで最終的に日本が辿る結末は一緒だと思います

116 虚無呼弖 ◆AbDmhTCTZY 2021/10/20(水) 02:47:31.16 ID:l9+9q80p0
>>112
山本五十六がミッドウェーから目と鼻の先にあるハワイを占領して早期講和に持ち込もうと目論んでいたという話でしょうか
結論から述べると不可能です
それは山本五十六だって薄々不可能なことは分かっていたはずです
山本五十六は対米戦争に関して東條英機内閣に頑なに反対していました
まず陸海軍共にアメリカと戦力規模が違いすぎます
アメリカに勝てる見込みなどあるはずもないし、日本政府の目標は東南アジア占領であってアメリカ一国に対して総動員することはしませんでした(仮にアメリカに総動員でかかっても勝てないとは思いますが)
山本五十六のハワイ占領からのルーズベルトとの早期講和は日本が甚大なダメージを被る前に何とか「負けずに済む(勝ちではない)」ための言わば苦肉の策でした
先程も書いたとおり、それは山本五十六一個人の考えに過ぎず、更に当時の日本政府は戦争!戦争!戦争!、それしか頭になかったので聞く耳をもつはずもありません
山本五十六も日本政府がそんなんだからどうせ自分の意見など通るはずもないことは分かっていました
ここからは当職の意見ですが、もし対アメリカに戦力を総動員していればハワイ占領はできていたかもしれません
ただ次の講和に関してはアメリカ側が日本の要求(引き分けという形で終戦)に素直に応じるとは思えません
これまでに日本が犯してきた悪行の数々をアメリカが見過ごすはずがありませんので
日本が奪った土地をすべて返還し賠償金も支払いますとでも言えばアメリカは少しは立ち留まって考えてくれるかもしれません
ただそれに黙っていないのは戦争脳で有頂天になっている日本政府です
ベルサイユ条約で地獄を見たドイツの二の舞になるなど死んでも日本政府が受け入れるわけがありません

要するにハワイ占領はまず不可能で、仮に対アメリカに総動員していればハワイ占領まではできても講和が実現する未来はないという訳です

117 一般名無し質問者 2021/10/24(日) 23:28:12.00 ID:L8hCZ3hq0
大友皇子は即位していたってマ?

118 一般名無し質問者 2021/10/25(月) 12:45:08.66 ID:FWCGRTIRI
真偽はわかりませんが、大友皇子即位説という長年に渡る論争があります

119 虚無呼弖 ◆AbDmhTCTZY 2021/10/26(火) 02:55:41.16 ID:dm8mbf5l0
>>117-118
当職もどちらが正しいかまでは分かりませんが、補足程度に大友皇子即位説について軽く概要を書きます

671年に天智天皇が崩御し、翌年の672年に大友皇子と大海人皇子による後継争い(壬申の乱)が起こり、大海人皇子が勝利して天武天皇となり即位したというのが教科書にもある通説です
これに異を唱える考え方があり、天智天皇が崩御してから壬申の乱で敗北するまでの間に大友皇子が即位式を行って天皇の座に就いていた時期があったのではないか?というのが所謂大友皇子即位説です
この論争の最大の論点が「天智天皇が崩御してから壬申の乱で敗北するまでの間に大友皇子が天皇の座に就いていた期間が1日でもあったのか否か」という点です
大友皇子即位説を理由づける根拠がそれなりにあるため、長きにわたる論争とまで発展しているのです
ここからはwikiに記述を参照します(どの歴史書に何と書かれているかまでは当職は把握していないので)
https://tinyurl.com/y3bscjp6

平安時代の即位記述においては、
>もっとも早いのは10世紀に書かれた『西宮記』で、天智天皇10年の「12月に帝位に即く」とある。
>『扶桑略記』は、「天智天皇10年10月に大友太政大臣が皇太子に立った。12月3日に天皇が崩じた。同5日に大友皇太子が帝位についた」と記す。
>『年中行事秘抄』には、大友皇子が「皇太子となり帝位に即く」とある。
>『立坊次第』(紹運要略)には、天智天皇10年に「同年12月5日帝位に即く」とある。
>『水鏡』は、「10月には大友皇子を東宮に立てた」、「天智天皇10年12月3日に失せたため、同5日に大友王子が位を継いだ」とする。
>『大鏡』は天智・天武の継承では大友皇子の即位に触れないが、別のところで「大友皇子はやがて帝になり、帝のまま失せた」と記す、また「この皇子は太政大臣の位で、つぎにはやがて同じ年のうちにみかどとなった」とも書く。

120 虚無呼弖 ◆AbDmhTCTZY 2021/10/26(火) 02:55:57.07 ID:dm8mbf5l0
これより、平安時代の文献には大友皇子が即位していたのは事実だと書かれていることが分かるかと思います
これが即位説を支持する人の大きな理由の一つとなるでしょう
次に日本書紀です
wikiの言葉を引用すると、
>壬申の乱について、今に伝わるもっとも詳しく時代も古い史料は『日本書紀』である。
>この史料では、天智天皇の次の天皇は天武天皇となっており、大友皇子の即位は記されていない。
>大友皇子即位説とは、『日本書紀』の編者が曲筆して大友即位の事実を抹殺したという説でもある。

日本書紀には一切大友皇子が天皇として即位していたことが書かれていません
これが非即位を支持する理由でもあり、同時に即位説を支持する人は大友皇子の存在が抹消されたと反論もしているわけです
ここから先は割愛しますが、当職としては両者の言い分も筋が通っている以上は実は大友皇子が即位していた時期もあったという見方は強ち間違いではないような気もしなくはないです

121 一般名無し質問者 2021/11/03(水) 02:07:23.97 ID:PCDppeCd0
なぜ吉田茂は再度首相に返り咲くことができたのでふか?

122 一般名無し質問者 2021/11/10(水) 00:36:55.07 ID:wR6mgjzE0
なぜ室町幕府は鎌倉公方を置くと言う鎌倉幕府と同じ過ちを犯してしまったのでふか?

123 一般名無し質問者 2021/11/11(木) 01:10:50.51 ID:RdH9Saofi
臥薪嘗胆の日々(迫真)
日露戦争での日本はあくまで判定勝ちであり本当の勝ちではないという言説を見かけたことがありまふが日本があの戦争で負けることはあったのでしょうか?
また負けたとしたらどのように世界史が変わったのでしょうか?

124 一般名無し質問者 2021/11/11(木) 15:57:52.02 ID:BhxIRazP0
>>123
大規模な消耗戦に耐えきれずに自壊して負ける、もしくはバルチック艦隊が本土に到達し直接攻撃を受けることはあったかもしれません
ですが余程の失敗を重ねない限りはまず負けることはないと思いまふ

125 虚無呼弖 ◆AbDmhTCTZY 2021/11/14(日) 02:11:09.62 ID:XA1pK2Vn0
>>121
恐らくバカヤロー解散後の話を聞いていると予想したのでそれについて記述します
違っていたら大変申し訳ありません
事の経緯から遡ると1953年2月28日の予算委員会のバカヤロー発言で同年3月14日に内閣不信任案が上程されたので衆議院が解散となりました(これが所謂バカヤロー解散です)
その後の第26回衆議院議員総選挙では自由党は与党の座を確保しました(ただ過半数はとれなかった模様)
吉田茂自身は改進党を重光葵総裁と党首会談をして(事実上)閣外協力をさせることで自由党に取り込み、内閣総理大臣の決選投票にまで持ち込むことに成功しております
こうして誕生したのが第五次吉田内閣です

126 虚無呼弖 ◆AbDmhTCTZY 2021/11/14(日) 02:36:28.92 ID:/jF8A9EE0
>>122
当職としては鎌倉公方を置いたこと自体は失敗だという認識はありません
というよりかは置かなければもっと大変な事態になっていたと思います
鎌倉公方が京都にある室町幕府の大本にとって都合がよかったというのはさておいて、南北朝時代に足利尊氏・高師直と弟の足利直義との派閥争い(観応の擾乱)がまず背景にあります
観応の擾乱は足利直義の死という形で足利尊氏サイドの勝利となりましたが、その際に足利尊氏の嫡男である足利義詮が当時関東を支配していたのですが、父側の味方に付いて足利直義の代わりに政務を執る為に上京しました
その結果、関東の支配がいなくなってしまいましたので足利義詮の代わりとなる人物として足利尊氏の四男である足利基氏を抜擢して鎌倉公方を設置しました
ただその後の鎌倉公方はご存じの通り京都の室町幕府に刃向かい続けましたので永享の乱や享徳の乱にまで発展し、室町時代は波乱な時代となりました

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