41 - スッカー 2021/11/03(水) 03:13:22.55 ID:Ogdqbn3l0
直参とは言え名古屋の一組織だった弘道会が何故山口組の中心となれたかは山一抗争(1984〜1989)前後にまで遡ります
弘道会は元々弘田武志率いる弘田組と言い司忍は若頭でした
三代目山口組組長田岡一雄の死によって引き起こされた山口組四代目跡目問題の際は四代目山口組から離反した山本広を推す弘田を説得し(後に弘田は引退し組は司忍を会長とする弘道会に改称)四代目組長竹中正久との対立を避ける動きを取りました
その竹中正久は硬骨な武闘派で知られましたが1984年に暗殺され山健組の渡辺芳則が五代目を継承、宅見勝を若頭とする体制が発足しました
この頃には司忍は若頭補佐・中部ブロック長に任命され既に山口組内でも有数の幹部となっていました(跡目問題を発端とする山一抗争により複数の有力幹部が離反・失脚していた事情もあります)
後に宅見勝が殺害され渡辺の健康状態が悪化した頃には六代目に司忍を推す幹部も多くおり結果継承される事となりました
有力な古参幹部が高齢化・失脚ないし抗争で死亡するなどして阻む要因が少なくなったのも大きいですがやはり長年の山口組に対する貢献(勿論様々な根回しを行ってはいるでしょう)が評価されての六代目継承と見るのが自然でしょう