【田村祐樹】雑談★4【緩和ケア医】 (625)

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4 - がん患者さん 2016/05/29(日) 17:08:07 ID:APiDnTKk

1歳のころ、私は大病を患い、緊急手術にて一命を取り留めたことがありました。
その影響もあり、小学生のときは体が弱く、2週間に一度は風邪をひき、熱を出す子供でした。
ところが、虚弱にもかかわらず、遊びや運動には活発に参加していましたので、年に1回、大学病院へ精密検査を受けに行っていることは、ほとんど知られていませんでした。
私が大きな影響を受けたのは、毎日のように通院していた診療所の先生でした。
俗に言われる「赤ひげ先生」で、先生の自慢は「この地域の医師会で、一番所得の低いのは、私だ!」でした。
そして、大変物知りでもありました。診察が終わると、いつも長々と色々な話をしてくれました。
小学生の私に、医学のことは勿論、相対性理論や数学、はたまた社会の仕組みなど...、
それがとても楽しかったのを覚えています。

医師を志したのも、自分の病気や病弱のことに関心があったことと、この先生の影響が大きいと思います。
私が医学部を卒業するとき、挨拶に伺ったとき、「仏心鬼手」という言葉を色紙に書いてくださいました。
今でも、その言葉は、私の奥底を支えてくれています。

医学部時代から、がんに関心があり、医師になったら、がんセンターで修行したいと考えていました。
医師4年目に現実となり大変嬉しかったです。食道外科レジデントとして3年研鑽、半年研修生となり学びを深めました。
帰学後、大学院でも、食道がんについて研究し、医学博士を取得しました。当時は、「がん」そのものに関心があり、手術に没頭していましたが、たまたま、総合診療部に移動の話があり、そこで転機を迎えました。
はじめは、「まさか、私が外科をやめるなんて!」と思いましたが、一日、じっくり考えている時に、私は「がん」そのものではなく、がん患者さん、がんを抱えている「人」その方々と関わることが、私の本当にやりたいことなんだ、ということに気づきました。
それは、幼き頃に出会った「あの赤ひげ先生」の影響かもしれません。

たった一日でメスを置くことを決意し、外科を辞し、総合診療部、そして緩和ケアの道へと進んで行きました。
外科医時代を支えてくれた家族は勿論、医局の先生方、これまでにお世話になった先生方に、心から感謝しています。

緩和ケアに進むべく大学を辞めて、彦根市立病院緩和ケアへ勤務することとなりました。
そこで、サイモントン療法の存在を知ることになります。
初めてサイモントン療法のプログラムに参加したのは、2004年4月で、ちょうど患者さんや家族にどのように関わっていけば良いのか、どのようにサポートすれば良いのか、迷いの中にいる頃でした。
患者さんにとって役立つものと思い受講していた私は、サイモントン先生の話に、どんどん引き込まれていきました。
プログラムが進むにつれ、この療法は、がん患者にとって役立つばかりではなく、病気のあるなしにかかわらず、どなたにとっても、「自分らしく」生きていく ために、健やかに豊かにこの人生を生きていくためにとても大切なエッセンスが盛りだくさんであることに感銘を受けました。
特に、喜びの大切さ、希望を育み、物事を信頼することの大切さを学べたことは、今でも私の根底を支えてくれています。
受講している私自身が癒されていくのを実感し、これは、患者さんへの提供と共に、仲間である医療者やケアスタッフに伝えていく必要があると思いました。
目の前の大切な方々に良いケアを提供し、その人らしさを支える関わりをしていくためには、自分自身が満たされて癒されている、そのような良い状態にあることが大切です。
「CARE for CAREGIVER」、このメッセージをこれからも発信していきたいと思います。
大きな意味で、「CAREGIVER」は医療者や家族、仲間であり、そして自分そのものでもあります。

http://www.simonton-tamura.com/profile/