1 - 名前が出りゅ!出りゅよ! 2018/11/20(火) 21:14:18.17 ID:ARBepMFsi
タクシーのステレオから、俺の一番好きな曲が流れている。その曲は十年前の九月に発売された。
朝からタワーレコードに並んで手にした五分四十六秒の曲は、オリコンチャート初登場一位に輝き、二十五万枚売れて、ドラマの主題歌になって、CDはもう直径十二センチになっていて、俺はケータイを持っていて、喫茶店のバイトは辞めていて、三十六歳の男をおっさんだと思って、人と人はいつか別れるかもしれないことを知らなかった。
三十六になった今、好きな曲のためにレコードショップに並ぶようなことはしない。下宿の電話を占領するのが申し訳ないから、とテレカを買ったりしない。なにもかもが変わった。
だけど大学生の頃使っていたテレカは今も、財布の奥の方にしまってある。あと五分くらいは電話できそうだ。このテレカは、あいつの声を聞くためだけに買った。
タクシーを降りた俺は電話ボックスに入った。彼に「ごめん」と「さよなら」を言って、テレカを使い切るためだ。受話器を手にとり、深呼吸しながら、あいつのことを考えた。
人生で一番好きな本だとか、人生で一番好きな曲をひとつ教えてもらえたほうが、長々と自己紹介されるより人を深く知ることができると思う。だけどあいつは、そういうことを一切語りたがらず、好きな食べ物を聞くと嫌いな食べ物を教えてくるようなやつだった。せめて俺のことを知ってほしくて、買ったばかりのCDを貸した。そういえば返してもらっていない。返してもらうには、放置しているメッセージアプリと向き合う必要がある。せっかく送ってくれた「ごめん」に既読をつけたままだ。明日こそ謝ろう、明日こそ謝ろう、と思っているうちに一ヶ月が過ぎていた。
それにあの曲はストリーミング再生が始まっているから、CDを持っていなくたっていつでも聴ける。
CDラックの隙間も、下らない喧嘩もそのままになった。明日も仕事がある。俺は十年前の感傷より、一ヶ月前から連絡を取り合っていない恋人より、八時間後の朝を優先するおっさんになっていた。
喧嘩の原因は、俺以外の誰かと新しく事務所を設立する、と聞かされたことだった。思わず俺は「なんで?」と言っていた。
「なんで、って言われてもな」
「ふたりで事務所やるの?」
「そうだけど」
「なんで?」
仕事は仕事だから関係ない、というのが彼の言い分で、なんでそれが俺じゃないの? というのが俺の言い分だった。仕事だったらなんなんだよ、他の男とふたりっきりなんて許せない、俺は嫉妬で怒り狂い、あいつは「きみのそういうところが本当に無理」と俺への不満を糾弾した。歳ばっかり食って、俺たちは大学生の頃とまったく同じだ。
小さな不満は雪だるま式に大きくなり、俺は事務所をやめ、彼は予定通り事務所を設立した。事務所が別れ別れになっても、笑っても泣いても、平等に朝は来た。
先月入所したばかりの事務所は駅のそばだ。人見知りのきらいがある俺にしては割とすぐ慣れた。ついこのあいだまで所属していた事務所のことで、なにか言われるようなこともない。とはいえ、同じ事務所で働く人間とすごく仲が良くなったわけでもなかった。 当たり前だ。友達を作りに仕事へ行くわけではないのだから。
俺はただ仕事をこなしてさえいればいい。ただ仕事をして、最低限の会話をして、お疲れ様です、お先に失礼します、それで終わりだ。歓迎会のようなものは一応開いてもらった。どうやら飲酒にも口実が必要なようだ。これから先、誰かとものすごく仲が良くなることは二度とないと思う。