2 - 名前が出りゅ!出りゅよ! 2017/07/05(水) 12:57:25.12 ID:EBdoGlpT0
眠剤が完全に抜け、まともに動けるようになったのは午後だった。
どこかへ行きたいと感じた。財布と煙草だけ持って神田から山手線に乗り、渋谷に向かった。裕明は渋谷が好きだった。あまりにも人がいるから、自分が消えていくような感覚に陥る。電車に揺られながら、あの男に出会ったときのことを考えていた。
あの男は、真性のサディストや、もはや男でなくなった老人がメインの客層だった裕明の、一番の太客だった。
二度目のとき男は裕明の一ヶ月の出勤分をまるまる買い上げた。しかし殆ど毎日彼に会わなければならないというわけではなく、連絡先を教えられ、一度帝劇に芝居を見に行っただけで、基本的には放って置かれた。
要は、出勤するな、つまり他の男に抱かれるな、という意思表示だと、裕明は捉えた。
一ヶ月を過ぎるとまた一ヶ月、さらに一ヶ月が過ぎるとまた一ヶ月。男と裕明の契約はそのたび更新された。
裕明は結局、店を辞めた。ボーイに大金を持ち逃げされないよう、毎日事務所へ足を運ぶのが面倒になったからだ。
逃げるように飛び出した実家からも、口座に毎月入金されているが、一度も手をつけていない。男に寄生していることにかわりはなくとも、親を頼るよりずっとましだと裕明は考えている。
ハチ公口から出て坂道を登り、シネマライズで適当に映画のチケットを買った。あの男が帰ったあとは、自分を見つめなくていい時間も、裕明には必要だった。
上映開始までまだ時間がある。パルコに通じる坂道を更に登り、入った喫茶店でトーストとコーヒーを注文した。
ピークタイムを過ぎたからか、店内は閑散としている。マッチを擦り、煙草に火をつけようとした瞬間、若いウエイターが裕明を見て「あ!」と大声をあげた。裕明は驚いてそちらを見た。ウエイターが早足で近づいてくるので更に驚いた。
「なあ!お前山岡だろ?山岡裕明!」
「はい、そうですが……」
目の前のウエイターは、まるで知己に再会したかのような喜びを露わにしている。だが裕明はその青年を知らない。呆気に取られ、目の前の青年をまじまじと見るほかなかった。
かたそうな髪は短く切られており、筋肉のついた身体は日焼けして小麦色だ。ぱりっとしたワイシャツと黒いサロンエプロン──おそらく制服だろう──は、お世辞にも似合っているとは言い難い。けれど活発で、とても魅力的な男の子だというのが裕明の第一印象だった。