バロットの殻 (22)

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1 - 名前が出りゅ!出りゅよ! 2017/07/05(水) 10:53:36.04 ID:Zl3NGK4/0

午後八時。
買い物を済ませ、シャワーを浴びても、あの男がやってくるまでまだ一時間近くある。裕明はひきだしからクリームを取り出し、爪先から丁寧に塗った。これは以前伊勢丹で買ってもらったもので、自分が来るとき必ず塗っておくようにと裕明は男に命じられている。ミルクの甘い香りが輪郭を描き、乳呑み子のようになるのが男にとってたまらなくいいのだという。
その作業が終わると裕明は猫のようにベッドで丸くなったが、ふとLPを出しておくのを忘れたと気付いてぱっと起き上がった。
LPは、あのひとのためにある。前回使用されたのが約一ヶ月前だから、もう随分と埃を被っていて咳が出た。専用のクリーナーで綺麗にみがき、LPの棚を整理し、シガー用の灰皿を出し、換気をしても、まだ時間があった。
読書をして過ごそうかと考えたが集中できず、ベッドの上に逆戻りした裕明は、あのひとが早く来てくれないことに腹立たしさを覚えていた。そして、自分が腹を立てていることに、ひどく困惑していた。
三十分が過ぎた。チャイムが鳴る。
驚くほどの俊敏さで裕明は起き上がり、玄関に向かった。ドアを開けると、彼がいた。
「やあ、こんばんは」
「……こんばんは」
男を部屋に招き入れ、コートを預かりハンガーに掛けた。
「何か飲まれますか」
「いつもと同じでいい。レコードも、きみの好きなものをかけたまえ」
男はそう言ってソファに腰掛けた。裕明は冷蔵庫を開け、彼専用のグラスに氷を三個入れる。先程買ってきたばかりの、ラフロイグというウイスキーを半分まで注ぎ、彼に教わったとおり、グラスのふちを這わせるようにして炭酸を注ぎ入れた。
……いいかい、ソーダを氷に当ててはいけないんだ、余計な泡が立つからね……
男が裕明にはじめて酒の作り方を教えたとき、彼は裕明の後ろに立ち、両手と両手を重ね合わせた。あのときの囁き声、ぬくもりが必ず蘇ってきて、酒を作るとき裕明の手はいつも震えてしまう。スプーンで氷を二、三度持ち上げ、完成したグラスを彼の前に置いた。
「ありがとう」
裕明は軽く頷き、LPの棚でしばし逡巡した。ゲッツ&エヴァンス──ナイトアンドデイが聞きたかった──と迷ったが、ケルンコンサートを指先ですくいとった。慎重に、ケルンのB面をセットした。後半の、泣いているかのようなピアノが室内に切なさをもたらす。
マーラー、ベルリオーズ、ショパン、ドビュッシー……男の好きなクラシックは感傷的になりすぎる。神経過敏ともいえる青年の繊細なたましいには、ジャズがちょうどよかった。
裕明は男の隣に座った。男はシガーをふかしながら言う。
「最近、どうだね。勉強の方は」
「まあまあです」
「サッカーはまだ続けているのか」
「……はい」
「あんなもの、早く辞めてしまいなさい。何度も言っているはずだが」
「来年は院試があるので、僕もそろそろ引退しなければと考えています」
「私が言いたいのはそういうことじゃない。怪我でもして、痕になったらどうする」
……女じゃあるまいし。僕はあなたの人形なんですか、と衝動的に尋ねてしまわないかと、裕明は自分を恐れている。
無駄な質問をしてはいけない。彼の機嫌を損ねてはいけない。
東京に出てきてすぐ働き始めた店を辞めてから、僕の学費や生活費を出しているのはこのひとで、いま、僕のいのちも、身体も、全部このひとのものだ……。
「まあいい。早速で悪いが、これを飲みなさい」
手渡されたのはいつもの睡眠導入剤だ。裕明は男に従った。水色の錠剤を舌の裏に入れて、ベッドに横たわる。
意識が朦朧としてきた頃、男の体重を感じる。服を脱がされているのが分かる。だが、裕明は眠ってしまう。自分が眠っているあいだに何をされているのか、裕明は実感として知ることができない。知っているのは、夢の中で、男が裕明の両手を後ろから掴んで乱暴に腰を叩きつけたことだけだ。
眠っていて、動かないきみが好きなんだ──と男は言う。だから裕明は日曜の朝が嫌いだった。男が訪ねてくるのは必ず土曜の夜で、眠剤の効果が切れ目覚めた朝、部屋にはもう誰もいない。
レコードは止まって、ウイスキーとシガーの残り香だけがぼんやり漂っている。
裕明はゆっくり身体を起こし、窓の外を見つめた。よく晴れている。ベランダに出て風を浴びながら、のしかかる孤独をやり過ごした。
一度でいい。たった一度でいいから僕が起きている間に抱き締めてくれたなら、僕は一生の思い出にする──裕明は目を閉じ、うずくまった。