1 - 名前が出りゅ!出りゅよ! 2017/01/09(月) 17:48:21.99 ID:cNTlGSU20
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「それで……」
羽のように柔らかい指は、僕の唇を触り、鎖骨をゆっくりとなぞって下腹部に降りた。
「きみは、人の命を奪ってみたいと思ったことがあるかね」
かぶりを振る。
「殺したいほど誰かを憎んだことは?」
頷く。
「そうか。では殺したいほど愛したことは?」
よく意味が分からず、首を傾げた。僕は言葉を発しない。この甘美な静寂を乱していいのは、目の前の老紳士だけだ。
「じきに分かるようになる」
紳士はMと名乗った。でもきっと偽名だろうと、そのときの僕は思った。
Mさんは、マデイラワインの複雑で官能的な味わいのことや、フランスで出会った男娼のこと、快楽と殺人欲動の関係性、様々なことを話しながら、たっぷり時間をかけて僕の服を脱がした。
「私はね、未完成の若者が好きなんだ。きみのような美男子は特に好きだ」
耳元で囁く彼の声に身体が麻痺する。甘く、ゆったりとしていて、聞いていると朦朧として意識が遠ざかる。ついに裸にされ布が床に落ちたとき、「ああ……」と熱いためいきが漏れた。
僕が大人でも子どもでも無かった頃、ミュージシャンが自殺して、原子力事故が起こり、ビルに飛行機が突っ込んで、後ろ向きなSFアニメーションが社会現象になった。僕はといえば親の期待に応えるため勉学に励む裏で、陰鬱なロシア文学に傾倒していた。
こんなふうにして作られた僕はやがて大学生になった。Mさんに出会ったのは二年の秋、雨の夜に終電を逃して、惨めな気持ちで膝を抱えていたときだ。
凍えながら死にたくはなくて、とにかく屋根のある場所に行きたかった僕は、付いてきなさいという老紳士の後を歩いて行った。行き先は案の定ホテルだったけれど構わなかった、僕はそういう人間だから。
「罪を犯してみたくなったらいつでも連絡しなさい。悪に身を落として繁栄を選ぶのも、正義を貫いて不幸の道を歩むのも、全てきみの自由だ。今しかない愚かさを楽しむといい。私は喜んで、その手助けをしようとも」
Mさんは別れ際に名刺とお金と、新しい仕事をくれた。彼は莫大な権力と財産を持った人間で、おそらくエロティシズムを追求する過程で人を殺したことさえあるのだろう。
少なくとも表向きは品行方正に生きてきた僕にとって、社会の規範を外れることは、とても魅力的であるように思えた。