さよなら愛着 (19)

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1 - 名前が出りゅ!出りゅよ! 2016/11/15(火) 19:32:13 ID:Z8fISKAk

 雨の隙間から十月の風が吹き込んで、俺はコートの前をきつく閉じた。合鍵で二重のオートロックを解除し、彼の部屋に足を踏み入れる。ノックしてから寝室に入ると、既にベッドに横たわる彼がいた。
「来てくれたの」
 ゆっくり顔を傾けて、俺を見る視線は定まっていない。眠る直前だったようだ。ぼうっとして力が抜けている。俺が去年の誕生日に贈った間接照明の灯りが、堀の深い顔に濃い影を作っていた。
「今日は来ないかと思ってた」
「仕事が終わらなくて……俺今度の事務所慣れないんだ。ごめん」
「謝るなよ。ねえ、こっちに来てよ。僕もう薬飲んだんだ。眠っちゃうかもしれない、だからその前にセックスしよう」
 山岡さんは俺に手を伸ばした。
「シャワー浴びなきゃ……俺、汗臭い」
「かもね」
 キスや抱擁もそこそこに彼は性急な愛撫を求め、そのまま服を乱し合った。まともに食事をとらない彼の身体はあばらが浮いて痛々しく、外出もあの一件以来殆ど出来なくなって肌が白くなっていた。次第に汗ばむ身体を無意味によじらせ、快楽から逃げようとするさまを俺は見下ろしていた。

 三ヶ月前のあの日、唐澤さんが死んだ。法廷で殺された。
 山岡さんは見ていた。唐澤さんの眼球が、鋭く尖った鉛筆で一突きされるさまを。凶器が脳に達し、血を流しながら絶命していくさまを。その犯人もすぐに自殺した。
 意外だったのは、通夜でも告別式でも彼が一度も涙を流さなかったことだ。耐え難い苦しみを外に出さないでいると、感情は別の場所に捌け口を探し出してしまう。怒りの行き場を失った彼は弁護士をやめ、ほどなくして心的外傷後ストレス障害と診断された。一年前から続く俺たちの関係もどこかゆがんできてしまったように思う。不安を持て余す彼は俺を根本的なところで信じてくれなくなった。いつもいつも、俺がいなくなる不安に駆られている。
 外に出ると吐いてしまう彼は、カーテンの締め切られた部屋で一日を過ごす。入院や療養施設の入所も彼は拒んだ。人と接したくない、と彼は強調した。
 何も考えない時間が必要なのだ。頭をまっさらにする時間。考えすぎると人はいかれてしまう。天才がすぐに自殺するのは、頭がよすぎて脳みそがヨーグルトみたいになったからだ。俺は週に二、三回彼の部屋に訪れている。安否確認だ。そんなことに意味がないのも、俺にはわかっている。ネットで買ったロープをドアノブに引っ掛けるのを、俺に防ぐことはできない。
 涙で顔をぐちゃぐちゃにした彼が掠れた喘ぎ声を上げ、全身を震わせてイッた。射精はしなかったようだ。キスをしながらもう何回か突いて射精した。虚脱感と共にベッドの上でぼうっとしていると彼はもう眠っていた。朝までそばにいてやりたい。だが彼が嫌がる。……明日早いので帰ります、そう書き置きしてから、頼まれていた食材を冷蔵庫に詰め、俺は部屋を後にした。こんなんじゃ、ただ穴に何かを入れに来ただけみたいだ。
 
 漠然とした虚しさが朝まで続き、ミスを連発して何度も頭を下げる羽目になった。俺は新しく入所した事務所で、いわくつきみたいな扱いをされていた当初から精一杯努力をした。最近になってようやく信頼を獲得してきたのに、このざまだ。喫煙所でコーヒーを飲み、メッセージアプリを起動した。
>今日行ってもいい?
 すぐに既読がついたが、一時間経ってからようやく「ごめん」と返事が来た。
>今日は会えない
>文字うつのもしんどい
>ごめん
 わかった大丈夫、薬飲むの忘れるな、と返信した。
 俺は彼の病気が治ってくれることを切に望んでいる。もう一度自由に笑って自由に外に出られたらいい。一方でこのままならいいのにと感じた。彼が家にこもって臥せっているあいだ、他の男に抱かれる心配はない。司法修習の頃から募らせた狂気は俺の心を少しずつ蝕んで、彼のいない外の世界になんの意味もないから二十四時間ずっと肌を触れ合わせて、一センチでも一ミリでもいいもっと近くにいたいそばにいたい一秒だって離れていたくないと俺を病ませる。
 しかし彼を抱きしめたときの幸福感は、一度離れないと味わえないものだ。彼が執着している対象が俺じゃないことの苛立ちを騙し騙し、日々を過ごした。大人になりきれない俺にできることなんて、あるんだろうか?