【再放送】背徳者/あいとはいったい (15)

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9 - 9/9 2016/11/04(金) 13:26:03 ID:eLytBpmE

 言葉を放つと、僕はHの顔を観察することに集中する。人間の感情というのは本当に豊かだ。いったいいくつの表情を浮かべることができるのだろう。
「……カネが欲しいのか」
 久々に口を開いたかと思えば、ずいぶんバカなことを言うもんだ。
 僕は軽く肩をすくめる。
「Hさん、僕はね、そんなものを望んでいるわけじゃあないですよ。初めにも言ったでしょう。これは脅しじゃない。
 取引なんです。物を交換する、ってことですよ。僕はこのメモリを差し出す。そしてあなたは、自身を僕に差し出す」

 どうです?

 こたえはきくまでもなかった。
 老人は蒼白な顔で、ぷるぷると身を震わせている。どんなことを考えているかまでは僕には見当はつかない。だけど、彼に拒否権がないということは確実だ。
 僕はHに歩み寄ると、そっと顎を手で支える。
「先ほどは乱暴にしてしまって、申し訳ない。仕切り直しといきましょう」
「ワシが」、眼前の老人が震える声で言う。
「ワシがお前の成すがままにされれば、その情報は、消えるんじゃろうな」
「僕が誠実で真面目なことは、仕事柄知っているでしょう?」
 ささやくように老人に語りかける。
「安心してください、多くは望まない。僕がKとしたであろう、たくさんのことを、僕はこれからあなたとするんです。あなたはそれをただ、受け入れてくれさえくれれば、いいんです」
 老人は唇をわななかせつつ僕を凝視し、やがて観念したように瞳を閉じる。
 その表情に僕はかつてテレビで見た、食われる瞬間の草食動物の顔を重ね合わせる。

 そうだ、あなたは僕の腕に抱かれて、彼のかわりになればそれでいい。

 僕は裏切られた。そして裏切られた男を潰す武器を持っていながら、最後まで彼に対してはそれをふるうことはできなかった。
 弱虫かもしれない。やろうと思えばできたことから逃れるだなんて、しようと思えば思うがままに操れたであろう男を逃すなんて。 
 でも、理論や算段で割り切れない感情というのは確かに存在していて、僕はその絶対性に抗うことはできない。
 そう、未練がましくいまだ僕は己の愛情を貫こうとしている。彼の背徳を目の当たりにしつつも、それを受け入れることもできないまま、こうして代替品を求めている。
 僕は性的に敗北し、一度死んだ人間だ。
 そして同時に、誰よりも深い愛情を併せ持った人間なのだ。
 
「……ねえHさん、愛とは痛いものですね」

 老人の答えを待たずに、僕はその唇をふさいだ。