【再放送】背徳者/あいとはいったい (15)

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4 - 4/9 2016/11/04(金) 13:13:21 ID:eLytBpmE

「こういう店は嫌いかね」
 薄暗い店内、けばけばしいライトに照らされた男は僕に言った。両脇には下品な露出をした、日本語をほとんど話せない女。
「ええ」、僕はきわめて素直に返事をする。「大嫌いです」
「同感だよ。私もこういうところは好きではない」と男はうなずいてみせる。「だが、こういった店というのは、秘密の話をするには都合がいい。そうは思わないかね?」
 返事をせずに視線を逸らした僕に、男の声が飛んでくる。
「そしてきみは、私のことも嫌い、と」
「その通りですね」
 S区の――いや、名前なんてどうだっていい。いわゆるクラブの一室に僕はいた。
 まともに音量調整もされていないBGM。安っぽい壁紙。下品で煽情的な間接照明。部屋中に染みついた煙草と香水と、ついでにメスのニオイ。運ばれてきたグラスを傾けて思わず顔をしかめる。おまけに酒までまずいときた。
「きみは私が嫌いで、こういった低俗な店が嫌いで、おまけに女にも興味がない」
 Mが傍らの女の腿を撫ぜながら言う。
「しかし、きみは来た。解せないね? それとも、自己の行為に矛盾のあることに気づいてすらいないのか?」
「はじめに連絡を寄越したのはそちらでしょう」、僕はグラスをできるだけ遠いところへ置きながら言う。
「あなたには借りがある。自分にとって借りのある人間が「来い」と言ったから、僕は来た。それだけだ」
「義理堅さというのは世渡りにおいて大きな武器となるよ」
 Mはもっともらしくうなずいてみせると、大袈裟に肩をすくめてみせる。
「もちろん、相応の具合を保つことができればの話だし、そのバランスを取ることができる人間はひどく少ないのだが。……私も時間がない。本題に入ろう」
「また僕に、スパイごっこでもしてほしいんですか?」
 テーブルに両肘をついて指先をからめ、僕は男をにらみつける。
「Hさんの周りを嗅ぎ回れとでも?」
 くく、と男は低い笑いを漏らすと小指で耳を掻く。
「いやいや、今回はそういうことではない。ちょっとした《噂話》を小耳にはさんでね、それできみに連絡を取った次第だ」
「噂話」、僕は男の言葉を繰り返す。
「私の聞いた限りでは、どうも、あのHのせがれとS事務所の弁護士が仲良くしているようじゃないか」
 ずいぶんと、仲良くね。男は薄い笑みをたたえて言うと、何かをはかるかのように僕を見る。
「それがどうしたっていうんです?」と僕は平静を装ってこたえる。 
 男はこたえず僕の顔をじっと見ていたが、視線を外すと女をしっしっと追いやった。
 小麦色の肌を限界まで露出させた彼女たちが、するりと軟体動物のようにボックス席から消えていく。
「なあY君、私はね、自分の気に入ったものに対しては、投資を惜しまない主義だ」
 男はゆったりとソファにもたれ足を組む。
「相手が企業であれ、人であれ、その主義が変わることは無い」
「何がおっしゃりたいのか、はかりかねますね」と僕は慎重にこたえる。
「きみに贈り物がある」
 男が指を鳴らすと、黒服の人間がどこからともなく現れて僕に何か差し出す。……USBメモリ?
「これは?」
 手は出さず男にたずねると、男は楽しそうに笑う。
「ご覧のとおり、ただのUSBメモリだよ。コンビニでも電気店でも売っているような、ごくごくふつうのものだ。私のお古だが、よかったらプレゼントしよう」
 僕は男の顔を観察する。黒いもみあげに包まれた薄い笑み。底の見えない湖のように真意の見えない笑み。
「しかし、私は昔から《うっかり》してしまうところがあってね」、男はわざとらしく肩をすくめてみせる。
「可能性の話をしようじゃないか。……うっかり者の私は、ひょっとすると、内部のデータを消し忘れたまま、きみにそれをあげてしまうかもしれない」
 音楽が切り替わり、洒落たドラムンベースから威勢のよい電子音のようなディスコ音楽へと変わった。音量さえ除けば、この店で唯一マシなところは音楽のチョイスだ。今頃フロアの連中はバカみたいに踊り狂っているのだろう。
「なるほどね」、僕は乾いた唇をなめて言う。「それであなたは、《うっかり》、何を消し忘れたんだろう」
「さぁて、忘れたな」と男は言う。「おぼろげな記憶をたどる限りでは、きみの昔の男に関する重要な情報が入っていたような気もするね」
「Kの情報?」
「私は名指ししたつもりはないが、きみが思うならその「K」とやらのことかもしれないね」
 男は笑みを深めると、ふいに席を立ちあがる。
「人生の先輩として言わせてもらえば、何事も自分の目で確かめることを勧めるよ。その中身をどう使おうと、きみの自由だ。……なにせ、私はうっかりしてデータを消し忘れたのだからね」
 Mの去った席で、テーブルに置かれていった白いUSBメモリを僕はじっと見つめ、やがてそれをポケットに滑り込ませると店を出た。