2 - 1/9 2016/11/04(金) 13:07:47 ID:eLytBpmE
そのときの僕の激しい混乱をKが気取ったのかどうかまでは、わからない。おそらく僕はひどく強い力でコーヒーカップを握っていただろうし、顔からは血の気が引いていただろう。
しかしそんな僕を素知らぬ風に、Kは手元に目をやって「うわ、コップびちょびちょナリ」と間抜けな声を出すと、短い腕を伸ばして紙ナプキンをとった。
汗をびっしりとかいたコップをそれで丁寧にぬぐう動作を、僕はじっと見つめていた。見つめていることしかできなかった。
一連の動作を手早く終えると、Kは再び僕に視線を合わせた。
「当職としてはね、やっぱ王道がいいかなーって思ってるナリ。ごはん食べた後、お酒飲んで、景色のいいところでも行って。それで、あわよくばー……なんて考えちゃってるナリ。だけど、初めてのデートでこうガツガツすると、引かれちゃうナリかねぇ?」
「すみません、ちょっといいでしょうか」
僕は自分の声が堅く乾燥した色合いを帯びているのを自覚しながら言った。公園で野ざらしになった、乾いた木製のベンチのような声色。
「お二方は、お付き合いなさっているんですか?」
こたえはそのときのKを見れば一目瞭然だった。
彼はいよいよ頬を熟しきった果実のように染め上げ、ストローをくわえたまま、こくりとうなずいたのだ。
「……へえ、そうなんですか」
自分の声がどこか別のものによって発せられているように感じた。僕の喉にガラガラとした球体が引っかかっていて、それが自分の代わりに話しているように思えた。
その先の会話はあまり記憶にない。Kが夢見る乙女のように語る恋物語をうんうん、ともっともらしくうなずきながら聞いたことのみを覚えている。
当然のことながら、Kは僕にアドバイスなんて求めていなかった。
彼の立てたデートプランはきわめて周到に計画してあったし(それはどう考えても、友達と気楽に遊びに行くようなそれではなかった)、彼はそれを誰かに話したかっただけなのだ。
ただの聞き役、ペットのネコに愚痴をこぼすのと同じ。
僕が喫茶店でこなした役目といえば、その程度のものだった。
***
Kと別れ、自宅へ戻る途中、僕の胸中は様々な思惑が渦巻いていた。
はじめに「なぜ」という思いがこみあげれば、それは「どうすれば」に変わったし、「もしかして」や「うまくやれば」などという言葉にも形を変えた。
用水路からすえたニオイの漂ってくる街路の途中、切れかかった街灯の下で僕は唾を吐いた。それから一気にこみ上げてくる嘔吐感にまかせ、胃の中身をげえげえと吐き出した。
確かにKと僕のあいだで、いわゆる一線を画すような行為、つまりは性交だとかそういったものは、数えるほど、それも最初のうち幾度かだけだった。
その一線を越えて以来、僕らは単なる同僚としてはあまりに親しい距離に互いの身を置いてはいたが、それ以上の部分ではけして交わっていなかった。
そういった関係を《恋人》と称するには、あまりにも頼りなかったかもしれない。都合よくそばにいた、気まぐれに肉欲をぶつけ合う相手。Kはその程度にしか、僕を認識していなかったのかもしれない。
だけど僕はKを、それをひどく陳腐な表現であると承知のうえで、確かに愛していた。
単なる欲求解消の相手としてではなく、ひとつの人格としての、精神的な部分を含めた彼を愛していた。
そして愚かしいことに、Kも同じような感情を僕に抱いてくれているものだと、純粋に思い込んでいたのだ。
欲望の絡み合いなどなくとも、暗い映画館で手を重ね合う瞬間や、ふと目があうたびに笑みがこぼれてしまう、そういった些細な事柄に、初恋に溺れる中学生のように舞い上がってしまっていたのだ。
Kはちがったのだろうか。
Kは僕という存在に見切りをつけ、そしてまた今度はあの風俗弁護士と新たな一歩を踏み出そうとしているのだろうか。
「……あいって、なんだ」
喫茶店で流れていた、くだらないポップ・ソングのワンフレーズが口からこぼれる。
その日を境に、僕の胸中にはぐるぐるとひとつの疑問が回転し続けている。
愛とは、一体。