【再放送】月の見える崖で今夜 (6)

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1 - 名前が出りゅ!出りゅよ! 2016/09/06(火) 06:33:21 ID:8Nbnru7k

もう死のう。
僕は崖へ続く夜道を歩いていた。死に場所を求めて。楽になれる場所を求めて。
家から電車を何本も乗り継いだし、駅からも何時間も歩いていた。
ここなら楽に死ねる。そう名高い身投げの崖だった。死ぬことは怖くなかった。むしろこのまま生き続けることのほうが怖かった。
僕に兄がいた。凶暴で、強欲で、根性のネジ曲がった男だった。そのうえ、力ばかりは強かった。
学校にもろくにいかず家にひきこもっては僕のことを殴り、蹴り、叩いた。
やめてと叫んでも兄の耳には入らなかった。父に頼んでも知らんぷりをされた。学校の教師は頑張ってくれたが、それでも家庭内の問題に介入することはできなかった。
僕にとって家は家ではなくなり、家族は家族ではなくなった。
年中殴られ腫れ上がった僕の眼は、世界をゆがんでしか見ることができなかった。
いつも踏みつけられ折れ曲がった僕の手は、世界の優しさに触れることはできなかった。
拠り所をなくし、ついに僕は僕ではなくなった。世界から除外された何かになったのだ。
もう死のう。そう思うのは当然のことだった。自殺はよくないことだという人は、人が人でいられる世界での価値観で語っているのであり、僕が押し込められた世界はそんなありふれた幸せな世界ではなかったのだ。
崖に続く道すがら、なにかいい思い出を心に浮かべようとしてもなにも出てこなかった。これでいいのだ。
だって少しでも未練を感じてしまったら、僕はこの道を進み続けるための勇気を失ってしまうかもしれない。
森を抜けると崖が見えた。先程から聞こえていた波の音は、何にも邪魔されず僕の耳に届いた。潮の香りが僕の鼻をくすぐった。
目の前の空には月がやたらくっきりとまあるく煌々と輝いていた。潮風が僕の体を心地よい涼しさでつつんでくれた。
死のうという間際なのに、生きているということを体中で感じていることがなんだかおかしかった。
いやむしろ、これから死のうとしているからこそ僕の生は最後の輝きを増しているのかもしれなかった。
風で流されてきた雲に隠され見えなくなってしまった月から、僕が踏み切ることになる崖の先に目を移すと、そこには靴があった。
ああ先客がいたのか。
なにしろここは有名な身投げの名所なのだから先客がいたっておかしくない。
風で飛ばないようにだろう、靴の下に遺書がおいてあった。僕はきっと遺書なんて書かないだろう。
だって遺書というのは、生きてきた人が残すものなのだから。僕には残す資格がない。
少し罪悪感はあったが遺書を覗いてみることにした。死ぬ前のほんの気晴らしのつもりだった。
遺書にはこの世界に残す言葉とともに、彼の身分証明書が入っていた。
雲が晴れ月がまた明るく照りだし僕の手元を明るくした。
僕は彼の身分証明書をみて驚いた。

(続く)