暴力に強い弁護士 (80)

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42 - 5 2016/07/02(土) 22:14:31 ID:fZxAcDAk

酒は飲まない。だがどうしても飲まなければ正気を保てない夜というのがある。
バーボンのグラスについてきたレモンカットを絞って飲み口に塗り、氷の中に沈めた。一口飲んでから僕は煙草に火をつけた。ずっと前に禁煙したから、久しぶりのニコチンに脳が揺れる。
今日は、あいつに何か言われる前にさっさと仕事を終え事務所を後にした。いつもはタクシーで帰るが、駅のすぐそばまで歩きバーで一人飲んでいる。ぎりぎりまで落とされた照明にキャンドルの灯りが揺らめいて、店内に影を一層濃くした。僕はその影に吸い込まれていくような錯覚を起こす。流れているジャズボーカルに混ざり、ふかしている煙草の火がじりじり音を立てた。
酒を飲んで煙草を吸う。酒を飲んで煙草を吸う。酒を飲んで煙草を吸う。フロアスタッフが灰皿を替えに来ないので吸殻はどんどん溜まった。

「ここにいたナリか」

はっとして振り返るとからさんがいた。僕の座っていたスツールが軋む。彼は僕の隣に座り、「心配したナリよ」と笑った。外で雨が降り出したらしく、彼は傘を持っていた。

「……よく分かりましたね」
「きみはつらいことがあるとここに来るナリ。当職に入ってわかってるナリよ」
「……そうですか。からさんも何か飲みますか」
「オレンジジュースでいいナリ」

ふ、と笑みが零れた。

「可愛いですね」
「からかってるナリか」
「違いますよ」

カウンターに並んでいるボトルを眺めた。きらきらしていて綺麗だったから触れようとして、やめた。酒は客のものだが、瓶は店のものだから触ってはいけないと聞いたことがある。
物事はいつだって曖昧だから、どこまで踏み込んでいいのか、何が良くて何がいけないのか、僕にはよくわからない。
僕が黙っているので、からさんは運ばれてきたオレンジジュースのグラスをストローでぐるぐるかき混ぜていた。かわいいな。キスをしたい。
僕は煙草に火をつけた。それと同時に曲が切り替わる。昔の歌だ。煙草を持っていない方の手で天井を指差した。

「この歌知ってますか?」
「聞いたことはあるナリ」

彼はグラスについた雫を親指で拭っている。テネシーワルツです、と僕は言った。

「綺麗なメロディだけど、浮気の歌ですよ」

彼が嫌がるだろうから僕は反対側を向いて煙を吐く。

「信頼していた人に裏切られて、恋人を取られる歌です、なんでバレてるんだろう、バカなんですかね、なんだか泣けてくる歌ですよ」

彼の目を見たくなくて、僕は煙が空気に溶けて消えていくのをぼうっと眺めていた。
山岡くん、と名前を呼ばれ、顔を彼の方に向ける。

「きみが過去に何をして、これから何をしても、当職はきみを大切に思っているナリよ」

彼の言葉に対して、僕は何も言えなかった。灰皿で煙草を揉み消し、ただ頷いた。

「この後、どうしますか」

いつも通りでいいと彼は言う。ひどく酔っ払っているので何も出来ないかもしれないと一応断ったが、構わないと笑ったので僕は泣き出しそうになった。

それからのことはよく覚えていない。
本当に何もしなかった気がする。

覚えているのは彼がコンビニで買ってくれたトマトジュースが美味しかったことと、ビルの影に隠れてキスをして幸せを感じたこと、雨が止んだあとのアスファルトの匂い、心地のいい初夏の風。
その他は忘れてしまった。何もかもすべて。