2 - 名前が出りゅ!出りゅよ! (sage) 2015/11/09(月) 23:32:38 ID:kPaKyqPA
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レジで支払いを待っていると、脇からコーヒーの香りが漂ってきた。まだ眠気の抜け切らない霞みがかった脳のままに、その安全な香りを吸い込んで肺を満たしてみる。
眼前の店員は、ずいぶんと手慣れない様子で袋に商品をつめこんでいる。研修終えたての学生バイトくん、といったところか。
――こりゃ、なるべく早く支払いを済ませなきゃな。
早朝のコンビニエンス・ストアは、出勤前のサラリーマンやスポーツ新聞を買いに来た老人でひどく混み合っている。
後方につづく長蛇の列を横目で見ながら小銭入れの中身を確認し、ちょうどの金額になるように並べて置く。
「……ああ、レシートは要らないよ。ありがとう」
うしろの中年男が無愛想に「わかば、箸」などと言うのを聞きながら店を出ると、朝に急かされている街を吹き抜ける寒風に、思わず身が震える。
まるで秋をすっとばしていきなり冬が始まったみたいだ。少し前までは秋物の服なんて当分出す必要もない、と思っていたのだけれど。
昨晩、酒の勢いのままに飛び込んだホテルまでたどりつく。普段と違ってずいぶんと品の良い、2流どころのビジネス・ホテル。
僕らの単純な使用目的のために、わざわざどうしてこんなところを選んだのかは覚えていない。
同じく、なぜそんな高層を選んだのかも覚えていない7階まで昇るには、階段ではさすがに厳しい。
フロントを横切りエレベーターに乗り込むと、直前にひとりの女が乗ってきた。濃い化粧でごまかしてはいるが、おそらくは20代も後半、あるいは30すぎといったところか。
「開」ボタンを押して待っていた僕に、よくよくみていないとわからない程度の会釈をすると、するりとネコのように入り込む。
「……何階までです?」
「自分で押します」
意外な申し出に首をかしげるが、特にこだわることでもない。ボタン・パネルの前を開けて女に譲る。白い指が触れる「5」の文字。
狭い室内で対角線上に移動し、パーソナルスペースを互いに最大限に確保しながら、その背中を見る。
この寒さだというのに、ひどい薄着だ。うっすらと透けた赤い下着。くしゃみが出そうなほどに濃い柑橘系の香水。そしてその奥にかすかに漂う、情事のニオイ。
脳天の奥に残っていた、コンビニエンス・ストアのコーヒーの香りはそのニオイに汚染されてゆく。
くらりとした感覚が僕を襲う。左肩が下がり、手にさげたビニール袋がくしゃりとわずかに音を立てる。
なおも無防備なその背中を見つめていると、しびれるような何かしらの感触が僕の頭から両足へと走り、瞬間、不可思議な感情が湧き上がる。
――いま、この中でこいつを押し倒したらどうなるのだろう。
ひどく妙な考えが頭をよぎる。
得体のしれないコラージュを見たような、自分の陰口を耳にしてしまったかのような、薄気味悪さと居心地の悪さが僕の中でふくらむ。
なんでこんなことを考えたんだ? 僕にそんな趣味は無い。自分の美意識に反する人間をどうこうしたいなどという趣味は。
まるでフォトショップで修正に修正を重ねたような、偽りのものしか映し出さない人間を、欲望の対象にするだなんて。
視線に勘付いたのか女がこちらを見、肩にかけたショルダー・バッグをわざとらしくかけなおした。
慌ててたたずまいをなおし、えへんと咳ばらいをする。
5階で女は乗ったときと同じように、音もなく出てゆく。
ひとりになった空間で視線をあげると、監視カメラの無機質な目が僕をじっと捉えていた。