不可視光/しびれ、ときどき、めまい (49)

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18 - 名前が出りゅ!出りゅよ! (sage) 2015/11/09(月) 23:45:20 ID:kPaKyqPA

◆9

 最終の電車は人身事故のおかげで混み合っていた。また、どこかの誰かが自ら命を断ったらしい。
 それは第三者の視点からして悲しい出来事に分類されるが、僕の心に特別な現実感をもってしみこむわけでもない。
 プラットホームに溢れかえるゆがんだ笑いと、呼吸の方法を忘れてしまいそうなけだるい空気のなかで、うつむき加減に電車を待つ。
 やがて人波に流されて押し込められる金属の箱。つり革を握り、振動に合わせて左右に揺られながら僕は考える。
 色。それは何かしら精神的なものを指して放たれた言葉のように思える。
 心、感情、思考? ……いや、同じような言葉を並べたところで、意味なんてない。
 視線をあげて外を見る。黒いインクをいっぱいに流して、ところどころ白い点を垂らしたような外の風景。
 トレンチ・コートのポケットに入れた携帯電話が、かすかに振動しているのに気づく。Kだろうな、と直感的に感じる。
 ポケットの上からその存在にそっと触れて、いつまで振動がつづくのだろう、と考える。
 次の駅まではあと2分。そこまで鳴りつづくようなら、電車を降りて、電話に出よう。
 架線が過ぎてゆく。長く伸びる電線が上下に揺れ動く。それは永遠につづいているように思えるが、そうではない。
 アナウンスが、間もなく駅へ止まると告げる。気の早い人々は身支度をし、ぎゅうぎゅうとした空間で押し合い圧し合い並んで扉が開くときを待つ。
 電話はまだ振動している。
 僕はその振動に止まってほしいような、止まってほしくないような、相反する感情を抱く。
 もう一度、しびれとめまいを味あわせてほしいと思う僕と、そういったすべての衝動的な感情から逃れたいと考える僕がいる。
 おかしなことだ。僕はあれほどその2つの感触にこだわっていたというのに。
 お前は何を求めているんだ?
 窓ガラスに反射する男へ問いかける。
 ――お前はどこへ行っても手に入れられない。
 あの人の言葉を思い出す。
 
 電車が鈍いブレーキの音を立てて駅へ止まった。
 僕はポケットの感触を確かめると、このまま終点までゆくことを決めた。理由なんてない。いや、あるのかもしれないが、僕の心はそれを直視することを許してはくれない。
 ……「許してくれない」、なんて体の良い言い訳だ。結局、怖いだけにすぎない。
 窓の向こうで雲が月を覆ってゆく。より暗くなってゆく向こう側の世界が、より一層つり革を掴む男を窓に浮かび上がらせてゆく。
 それらは結局、対照なのだ。両方が明るくなることはない。
 発車のベルが鳴る。駆け込み乗車をする乗客を駅員が注意する。物憂げな機械音を立てて扉が閉まる。
 僕は窓にうつる男をにらんで、もう一度問いかける。

 お前は今、どこにいる?

 男はこたえず、僕をにらみかえす。
 どこまでも同じように左右非対称の瞳は、どこまでも同じように澱んだ流れを抱いている。
 そしてそれは時折、僕の中の、何か得体のしれないものを覗こうとするように光る。
 ……いや、違う。覗いているのではない。《映し出して》いるのだ。
 再び動き出した電車が、大きく横に揺れた。拍子で近くに座っていた老人の杖がカラカラと床に転がる。
 拾おう。
 思って伸ばしかけた自分の腕は目に見えない汚れがついている気がして、それは何をつかむこともなく、だらりと虚空に垂れた。