マツド・マッド・シンドローム (39)

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1 - 1/6 (sage) 2015/11/04(水) 23:06:46 ID:XYJ5KY/Q

 無機質な空間に、空調システムの音だけが響いている。施設に集められた人数は40298人。全員凶行に及ばぬよう全裸にされている。
 警備員によって誘導され、横に並んだ人々は、その硬質でひんやりとした壁に両の手を突く。
 壁は透明なガラスとなっており、向こう側の様子が透けて見える。といっても、どこまでも無機質で金属質な空間が広がっているだけなのだが。
 おそらくは、見通しを良くすることで民衆の不安を和らげる効果を狙っているのだろう。
 無言の集団に、アナウンスが流れる。
「それではこれより、抗体の摂取をおこないます。体を前に傾け、目の前の穴から舌を出してください」
 言われたとおり人々は、上半身を前方へ突き出し、壁にあけられている小さな穴から舌を突き出す。
 ゴォゴォとした空調設備の音しか聞こえない空間で、舌を突き出し横並びする無言の全裸の群衆。
 絵柄だけみるとシュールな一幕のようだが、その表情は一様に真剣だ。
 ある者は目を閉じ、ある者は額から脂汗を流し、またある者は眼前の光景を目に焼き付けようとでもするかのようにかっと目を見開いている。
 そのまま数分が経過しただろうか。「ピン、ポォ~ン」というねっとりとした電子音のあと、部屋の上部に取り付けられたスピーカーから声が流れる。
「お待たせしました。これより、マツド・マッド・シンドローム対策、抗体の摂取をおこないます」
 ガラガラとシャッターが開き、施設の奥から何かが台車に乗せられてこちらへ走って来る。かなりの高速だ。
「あっパカデブ」「パカデブだ」「きも!」
 幾人もがつぶやくのが聞こえる。すべての人間が彼の顔を知っている。
 当たり前だ。何日も「救世主(メシア)」としてテレビで散々報道された男を、誰が忘れようか。
 しかし、彼の本名まで知っているものはそういまい。現在それらの情報はすべて最重要機密として闇に葬られているのだから。
 TK。それが彼の本名だ。
 全裸のKは十字架に磔になったような姿勢で台車に埋め込まれている。あの台車の中では、彼を生かすための多くの装置が作動しているのであろう。
 Kの表情は弛緩しており、目ん玉は妙な具合に飛び出し、だらりと舌が垂れ下がっている。いわばアヘ顔的なあれである。植物人間化された彼が、もはや表情筋を動かすことなどないのだ。
 注目すべきは陰茎であり、それは包皮を取り除かれた状態で台の上にちょこんとお寿司のように乗せられている。勃起しているのは何らかの薬物の効果によるものだろう。

「これから粘膜がみなさんの前を通過します」
 アナウンスが告げる。
「絶対に、舌を引かないでください。今の体勢を維持してください。繰り返します、今の体勢を維持してください。絶対に舌を引いてはいけません」
 言われなくともみなそうしている。誰もがガラスに顔をおしつけ、必死になって穴からベロを突き出しているのだ。
「1人の猶予は1秒未満です、必ず《舐め忘れ》のないよう、ご注意ください。なお、如何なる理由であれ、《舐めなおし》は認められません。繰り返します、如何なる理由であろうと、《舐めなおし》は認められません」
 迷彩服に身を包んだ男が手をあげ、「はじめ!」と声を出す。
 通勤特急のごとき速さでKを載せた台車が人々の前を走っていく。
 チロリ。
 先頭に立つ男が突き出した舌にKの亀頭が触れる。目を固く閉じていた男は、安堵したような表情を浮かべる。
 チロリ。
 チロリ。
 台車が前を通り、Kの亀頭が人々の舌に触れてゆく。他者の亀頭を舐めるというのに、彼らに嫌悪の表情は見受けられない。
 それどころか舐め終えた人たちはみな、ほっとしたかのような息をつく。中には恐怖から解放されたというような、微笑を浮かべるものさえいる。
 やがて最後の1人――若い女性だ――が舐め終えると、台車は施設の奥へと消えて行った。すぐに合金の頑丈なシャッターが閉じ、台車は見えなくなる。
「お疲れさまでした」、アナウンスが響く。
「定期摂取はこれにて終了です。抗体の有効期限は1年です、お忘れなきよう。それではみなさま、お気をつけてお帰りください」
 解放された人々はみな、緩んだ口元に笑みを浮かべ互いを見た。