うつろい/象牙の塔の瓦解 (21)

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2 - 名前が出りゅ!出りゅよ! (sage) 2015/10/05(月) 13:01:22 ID:07J4XfxE

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 Hに頼まれていた仕事はちょっとした書類の作成だったので、さほど時間もかからずに終えることができた。
 この程度のことなら、Kにだってできるだろうに、どうして僕に押し付けるんだ。
 大きく伸びをしたとき、事務所のドアが開く。
「Y君、調子はどうだい」
 振り向いた僕に、白いもみあげの男が取って付けたような笑みを浮かべて言う。
「ちょうど終わったところですよ」
「そうか、助かった。きみは本当に有能だ」
 Hは言うと、僕の肩を軽くぽんぽんと叩く。親しさを確認するように。共有しようとするように。
 汚らわしい!
 そう怒鳴って振り払いたいのを我慢して、僕は表情筋を操作して笑顔を作る。
「君のような有能が入ってきてくれて大助かりだよ……どうだい、コーヒーでも一緒に。いい豆をもらっていてね」
「いただきましょう」
 そうこないとな。Hは相変わらずバカげた笑みをくっつけたまま言うと、事務員にコーヒーを淹れるよう指示を出す。
 薄い笑み、ぺりぺりと音を立てて剥がれ落ちそうな笑み。できるものなら引きはがしてやりたいもんだ。
 黒い感情を胸の中ですり潰して、僕はソファに座る。
「Y君はこんなに頑張っているというのに、まったくうちの息子はどこをほっつき歩いているんだか」
「さあ……また映画でも観に行ったのかもしれませんね」
 おそらく部屋で眠っているだろうKのことを考えながら僕はこたえる。
 給湯室からコーヒーメーカーのコポコポとした音が聞こえる。柔らかな香りがこちらまで漂ってくる。
 ひどく安全な香りだ。すべてを保証してくれるような香り。
 向かいに座ったHはもみあげを撫ぜながら窓の外を見ていたが、やがて僕の方に向き直った。
「なあ、Y君」
 老人の顔から薄い笑みはもう剥がれ落ちている。
「なんでしょうか」
「これで何度目の話になるかな……つまり、ワシのいなくなった後のことなんだが」
 だろうと思った。心の中でつぶやく。
 こいつに僕とコーヒー片手に世間話する気などさらさらないのだ。家名の威厳を守ることに必死な、婿養子。
 黙っているとHは身を乗り出して言う。
「ワシが死んだあとこの事務所は、君に任せたい。ワシはそう考えておるんじゃ」
「まだまだお元気なのに、気が早いですよ」
 僕は肩をすくめてみせる。
「それに僕にはそんな大役、つとまりそうもない」
「いや、君しかいないんだ。息子は見てのとおり、到底1人でやっていけるとは思えない。誰か有能な右腕がいないと心配なのだよ」
 僕はうつむき、間合いを測る。
 幾度も話を持ち掛けられ、迷った末にOKを出したのだと思えるような、もっとも適切な瞬間まで黙る。
「……そこまでおっしゃるなら」
「ありがとう」
 安心したよ。Hは微笑んだあと、不意にひどくせき込む。こんこんという不吉な咳の音色が事務所にこだます。
「風邪ですか?」
 僕はいかにも心配したふうにたずねる。
「どうも最近、よく咳が出てなぁ」
「寒くなってきましたからね。お体を大切にしてください」
「そうやってワシを心配してくれるのは君だけだ。妻も息子も何一つ気にかけてくれん」
 僕は微笑んで、運ばれてきたばかりのブラックコーヒーに口をつける。
 頻繁な咳は末期症状。そうあの男は言っていたっけ。
 あと少しの辛抱だ。あと少しですべてが終わる。