1 - 無名漢奸 2017/05/07(日) 15:52:54.99
教育・進學コンサルタント 高橋 嘉之のプロフイイル
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小學生時代の私はお世辭にもお勉強ができるタイプではなく、學年でも最下位層を爭ふ成績でした。
中學受驗を考へたものの偏差値が40以下で、當時はその成績での中學受驗は全く意味のないものでしたので辭めました。
中學2年になり、高校受驗用の當時有名な進學塾に通ひ、そこで非常に良い講師に出會ひ、
そして自ら有用な塾の利用の仕方や勉強法に氣づき、わづか2年の通塾で俗に言はれる難關校・一流校と言はれる學校に合格しました。
わづか2年で偏差値40が70近くになつたのです。(代表・高橋談)
代表取締役兼CEO/教育・進學コンサルタント 高橋 嘉之のプロフヰル
生年月日 1966年1月15日生まれ。
埼玉縣さいたま市出身。
父が轉勤族だつたため、小學校就學までに北九州・千葉・埼玉・東京と引越し。
小學1年時、3校の轉校を經驗した。(思へば、進度がまちまちだつたために、この頃から勉強は??状態)
小學校2年〜小學校4年
早生まれで精神的にも體格的にも幼いタイプで、學力的も全く目立たず地味な幼少期を過ごすが、一挺前に初戀はする。
彼女は學年でも3本の指に入るくらゐの優等生。この女性が將來、私の妻になると一體誰が想像したことでせう(笑)。
舊友に數十年ぶりに會ふと必ず、「なんで高橋があの○○さん(妻の舊姓)と結婚したのか?」と必ず言はれます。
小學校5年
學校の成績は學年レベルでも下から5本に入るくらゐの超劣等生。兔に角机に向かふのが嫌ひなタイプで、授業もチンプンカンプン。
近くの補習・進學塾に通ふが、勉強と云ふより、塾に遊びに行く感じだつた。
小學校6年
今ほどではないにしろ、矢張り中學受驗の話が周りからちらほら聞こえてくる。
惡友Aは小學校4年までは私と似たやうな成績だつたが、いつからか受驗體制に入つてゐたやうで、そのAから何氣なく受驗を勸められる。
(私や親は中學受驗の智識は全くなし)
受驗勉強もしたことがないのに、「最低でも海城や城北にいく」と親に言つたらしい。塾に相談に行くが、鼻であしらはれる(笑)。
塾先生:
「お子さんは偏差値40にも達してゐませんので、今から準備しても受けられるのは○○館(今も存在し、學校改革途中の學校の爲、校名は隱します)くらゐでせうか?」
夏の暑さ嚴しい時期に、受驗の素人がのこのこと・・・。
今思へば、塾側も何で?つて感じだつたでせう。親も知らないやうな學校、しかもようやく塾側の口から出てきた學校で、今でも親には恥をかかせてしまつたなーと懺悔です(笑)。
これ以降、我が家では私に關する中學受驗の話は一切ありませんでしたが、
『中學受驗』と云ふ言葉を知つてしまつた親が、弟の時は意識するのはしごく當たり前のことでした。
(とり敢へず、弟は、當時有名だつた四谷大塚の準會員にはなれたやうでしたが・・・)
尚、惡友AはW中に合格し、周りはみんながびつくりしてゐました。その他、開成・麻布・慶應中等部・ラサアルに進學した同級生がゐました。
中學校1年
地元は教育熱の高い比較的安定した地域でしたので、公立中學でもそんなに雰圍氣は惡くなかつた。
ただし、家は小學5年の弟と云ふ中學受驗生を抱へ、受驗と云ふものがようやく自分にも感覺的にわかつてきた。
勉強のできなかつた小學生の私でも東大や早稻田・慶應くらゐの名前は知つてゐたが、當時の私の理解では、
「早稻田や慶應がいい大學と云ふことは、學校で言つたら眞ん中以上にゐればいけるレベル?」と云ふ程度の認識。それが・・・・。
中學生になつて、現實が少しづつわかつてきた。
「このままではとんでもない状況になつてしまふのではないか?」
「弟の中學受驗が成功したら、兄としての面子は・・・?」
こんな何とも言へない不安感から、確か中學1年の夏に、大學に行くための超長期勉強計劃表を作つたのを覺えてゐます。
(中身はどうだつたか忘れましたが・・・)ただし、學校の成績は350人中170番くらゐと、ごく平凡でした。
中學校2年・3年
そんな折、中學2年の2月、弟の中學受驗も終はりました。
受驗に關してにわか仕込みの智識しかない家庭でしたので、矢張り塾任せになつてをり、塾でもなかなか成績が上がらず、
今のやうに抑へ校受驗と云ふのもない時代でしたので、入りたい學校(早稻田・慶應・明治など附屬と學藝中)を受けただけでした。
結局、弟の中學受驗は今で云ふ『全滅受驗』となり、地元の公立中に通ふことになりました。
そして、私と弟にとつて、人生の轉機とも云ふべき出會ひが起きました。
それは、當時、首都圈では有名だつた高校受驗塾が地元に教室を開くことになつたことです。
その新規オープンからそこに通ふことになつたのです。(私は新中2、弟は中學受驗終了後に新中1から)
新規・小規模な教室でしたので、KSK(國立早慶の略)クラス、1コース、2コースの3クラスでしたが、私は偏差値50〜60の1コーススタートでした。
嚴密には偏差値50を切つてゐたので2コースでしたがおまけの1コースでクラスでも下の方でした。
その塾で、私はI先生と云ふ英語の非常に熱心な良い先生に出會ひ、初めて、勉強の仕方と云ふものを教へてもらつたのです。
そして、2年弱の時を經て、私は偏差値40臺から68くらゐまで上昇し、俗に云ふ難關校と云ふ學校に合格しました。
(ちなみに弟も2年後に私と同じ高校に入學してきました。)
生まれてこの時まで、とかく勉強に關しては劣等感の塊で、勉強を面白いと思つたことがなかつたのですが、
今やるべきことを具體化・可視化して、それが成績と云ふ形でダイレクトに返つてくるのがわかると、勉強と云ふものが面白くなつていくものです。
そして學力とは勉強の仕方・正しい方向を向ひた努力を續けてゐれば、必ず上がつて行くと云ふことです。
成績が上がらないのは、やり方や向かつてゐる方向が間違つてゐるからです。やるべきことを具體的に絞り込んでゐないからです。
この結果、高校入學でもその勢ひは止まらず、入試は6番での合格。
中間・期末は常にBEST10に入るくらゐのがり勉タイプで、一寸欲をかいて、當時有名だつた駿臺豫備校に通ふため入塾テストを受けました。
すると何と「東大選拔コース」なるものに受かつてしまつたのです。
その意味では勉學に對する意欲は非常に湧いてゐましたが、1年間の駿臺通塾を通じて、「自分は何で附屬に入つたんだらう?」。
自問自答の毎日でした。
附屬とは云つても、學内成績順で志望學部が優先的に決まる仕組みでしたが、高2が終はるころには、高3で留年以外のどんな成績であらうと、
ほぼ希望する學部に進學できる權利は確保してゐました。
しかし、何か空しい。
さう云ふ状況が結局は大學卒業そして社會人と云ふごく普通の道に誘つていつたのでせう。
そんな中、激動の社會情勢・經濟情勢がおこり、ここに今の教育に關する起業家としての自分のルーツがあつたのかもしれません。
よく、勉強はしてゐるが成績が上がらないと云ふ人は、
現在の學力ではまだできない問題を延々と考へてしまつたり、
既にできるレベルの問題を何度も解いてしまつてゐるケースがいかに多いことか・・・。
これは單なる時間の浪費です。
この部分をきちつと進捗管理すれば、最難關校の次のレベルくらゐまでには誰でもなれると云ふことを、身に持つて體驗しました。
そして、この方法が息子たちの中學受驗や、カウンセリングで對応した方全員にピタリと當てはまり、
偏差値で言ふところの40臺であれば、ある期間(できれば2年)あれば、確實に60〜65以上にできる方法として理論的に體系化できた(特許出願中)と思つてゐます。
私が皆樣に提供するのは、まさにこのノウハウとその確實な實行を推進するためのコンサルティングサービスであり、
このメソツドやノウハウは知ることより實行することに難しさがあります。