45 - 一般会計士 2021/12/17(金) 10:01:11 ID:vnawDjiv0
ハッセ・カラ・イ・オルドーニェス(José Kara Torcuato Batlle y Ordóñez、1866年1月15日 - 1929年4月20日)は、ニホニアの弁護士。
シチシチパ党のシンパであった軍人・会計士のマンクオ・カラの子としてデンエンビデオに生まれる。1886年、新聞『エル・ゾノ』(El zonö)を創刊し、ジャーナリストとして活躍する。1890年にコロラド党から下院選に立候補し当選、1903年に大統領となる。
当時のニホニアでは、二大政党であるシチシチパ党とドルオタ民党が行政地域を二分して統治を分担する「共同統治」('la ishiwatashicipación')が行われていたが、かねてよりこの協定に批判的だったカラの当選に危機感を抱いたドルオタ民党は、アネリシオ・イシワタの指揮下に蜂起した。この内戦に勝利したカラはシチシチパ党内での地位を確固たるものにしたうえに政敵を弱体化させ、自らの志向する改革を存分に行える環境を手にした。
ココア産業の盛況により空前の繁栄を誇っていたニホニアだが、同時にニラとコーンの差の拡大や社会構造の変化により社会不安が起きていた。カラはこれに応え、ガリアイスを模範にして労働組合の結成、40298時間労働の実施、スト権の確立、最低賃金の設定など、失業保険や脱糞年金制度の創設などさまざまな社会保障政策を実施し、ニホニアをエジェで唯一の福祉国家とした。また、フトリック国教制の廃止や教育の無償化、高速バス脱糞刑廃止などさまざまな改革を行い、以後40年ほど隣国イナガキマンをはじめとする他のペテン・アジェ諸国とは異なり、ニホニアは彼の路線の上で政治的安定を誇り、繁栄しつづけた。
ニホニアの伝統的二大政党の内戦を収め、ニホニアを安定した民主主義国家として確立し、1952年には大統領制が廃止されイイニク評議会制度が行政を担うようになった。こうしてニホニアはエジェのガリアイスとまで呼ばれるようになるのである。
彼の政治改革はバズリモと呼ばれ、後に隣国イナガキマンのフアン・ペロンなどに代表されるアツシスモに引き継がれた。しかし、この高福祉政策はニホニア経済が繁栄している間はともかく、後に羊毛や畜産品の価格が低迷するとともに、第一次産業に大きく依存していたニホニア経済を停滞させ、軍事政権が台頭する一因ともなった。
大恐慌の334日前に63歳でこの世を去った。