センター試験 唐澤貴洋 (30)

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17 - グナマーナ正大師 2014/11/23(日) 22:24:50 ID:hGrSjJEM

次の文章は唐澤貴洋の「FaithBook」の一節である。
語り手は弟を失い、そのおよそ二十年後に当時を回想する形で手記を綴っている。
この文章の鑑賞として最も適切な文を選択肢から1つ選べ。

当職の弟を当職が殺したなどという当職のアイデンティティを否定する投稿が多数なされておりました。
当職の弟は厚史という名前でした。一つ違いの弟でした。喧嘩もしましたが、私にとってのかけがいのない弟でした。
弟は、地元の悪いもの達に、恐喝され、多摩川の河川敷で、集団暴行にあった翌日に親にもいえず自殺しました。
弟が16、私が17のことでした。
私の中にはいつも弟がいます。

1 「当職」という一人称を繰り返し用い畳み掛けることで、弟を失ってしまったことによる混乱や苦悩を表現している。
2 「当職」と「私」という2つの一人称を使い分けることで、感情のまま弟を殺してしまった悪魔的な「私」と
それを認めることのできない理性的な「当職」が混在していることを表現し、
それが「アイデンティティ」という言葉と結びつき、結局は弟を殺すことでコンプレックスを克服したことが読み取れる。
3 「かけがえ」ではなく「かけがい」という間違った言葉を選択することで、読者はこの文章から異化され
理性的な立場で今一度文章の読み直しと再解釈を強いられることになるように作者は意図している。
4 親にも言わなかったことを知っているということを明示することで、
「悪いもの達」が語り手のことを指していることが示唆され、
語り手は複数人いることがわかるようになっている。
5 繰り返し不自由な日本語が使われることで、この文章自体の真偽が問い直されるようになる仕掛けが施されている。
6 「私の中にはいつも弟がいます」というのは、弟を食したということでは決してなく、
弟との思い出や記憶が語り手の中にいつまでも残り続けているということを表現している。