839 - 一般カタルーニャ人 2023/11/09(木) 19:51:50.47 ID:0SkCei6iI
彼らは、この生物兵器を1978年、WHOを使い、天然痘ワクチンにエイズウイルスを植え込み、一億人以上に接種するという形で実験を行なった。
さらに、彼らはエイズがアメリカで話題になりはじめた後も、エイズウイルスが混入された血液製剤を日本に輸出し、日本にエイズの種を植えつけることに成功した。
1983年1月4日、アメリカ、ジョージア州アトランタ。この日、CDC、アメリカ国立防疫センターは、全米の血液関係者を集めて重大な会議を行なった。
CDCが行なった半年間の調査によれば、全米ですでに8人の血友病患者がエイズを発病し、その他に3人がエイズと疑われていた。この11人はいずれも血液製剤を使っていた。
会議から2カ月後の1983年3月、アメリカ政府は感染原因が血液中のウイルスではないかと考え、加熱処理をした血液製剤を緊急に認可した。
しかし、日本で加熱製剤が認可されたのは1985年7月、アメリカに遅れること、2年4カ月後であった。
この間、日本では熱処理をしない非加熱製剤が使われ続けたのである。
なぜ、2年4カ月もの間、日本の血友病患者たちは危険にさらされ続けたのだろうか。
アメリカで警告が発せられた1983年以来、日本の厚生省とその関係者は、この事態をどう受けとめていたのか。
その全容は今まで明らかにされてこなかった。
血液製剤が危ないという情報は、日本でも入手可能なCDCの機関誌や、外国の医学雑誌などを通して次々に伝えられていた。
こうした情報を厚生省の担当者に直接送り続けた研究者もいた。
1983年6月に、日本にエイズの実態把握に関する研究班がつくられたが、その研究班では本来とるべき対策をわざと遅らせる結論を出したのである。
血液製剤の輸入量は年々増加し、この時期、90%以上をアメリカからの輸入に依存していた。
日本の血液製剤の薬価はアメリカに比べて9倍の高さで、血液製剤メーカーにとって、日本は魅力的な市場と映っていた。
そしてCDCの警告にもかかわらず、83年、84年と輸入量は増えつづけた。
血友病患者にエイズが広がる図式は確実に出来上がりつつあったのである。
83年7月、第2回研究班の席上、国内の血友病患者の中にエイズ患者がいると報告されたが議論が分かれ、認定には至らなかった。
だが、これは日本にもエイズが忍びよっているという、危機感を持たせるのに十分な情報だった。
このように非加熱処理の血液製剤によってエイズが感染することは十分にわかっていたにもかかわらず、1985年7月まで日本には汚染された血液製剤が輸入され続けたのである。
そこには何か大きな力が働いていたとしか考えられない。
日本の厚生省は2年間にわたり、血液製剤が汚染されていてエイズの原因になることを知りながら隠し続けたのだ。
『アメリカのトラベノール社は、1983年6月、日本に汚染された血液製剤を出荷していた』
「あのですね、この文章を見ていただけませんか」
塩川「あ、この文章、今始めて見ましたですね。ええ、これだけのこと知っていると知らないとやっぱり、自分の考えがずいぶん違いますよね」
研究班の9人全員がこの事実を知らないと答えた。中でも塩川委員は、
「1本でも危険な製剤が入っていれば他の製剤にも危険性がある。この事実を知っていれば緊急輸入の議論は変わっただろう」
と語った。
厚生省は、なぜ研究班にこの報告をしなかったのだろうか。
当時、厚生省生物製剤課長だった郡司篤晃氏。
「この事例についてどういうふうに話し合ったか、ちょっと記憶はしてません。しかしわたくしが個人的に判断するってことはありません」
厚生省で郡司氏が判断をあおぐ立場にあったのは、薬務局長であった持永和見氏であった。
持永氏はその後、衆議院議員になっていた。
なぜ研究班に情報を伝えなかったのか。
「それはわたくしに聞かれてもねえ、それはだってその直接のね、研究班のね、所管は生物製剤課長なんですから。それはわたしに聞かれても何とも申しあげかねますねえ」
郡司氏は自分一人で決めたのではないと言い、上司の持永氏は郡司氏の判断で行なったのだろうと答えた。
しかし、この重要な情報が公開されなかった理由を二人は答えなかった。