488 - [´・ω・`] tor-exit-anonymizer.appliedprivacy.net 2023/07/06(木) 00:20:59.14 ID:V4WrRFkD0
じゃあ、欲求の方向性が大切とは、いったい何だろうかと。
ここに空腹な者がいたとしようと。そして、「ラーメンが食べたい、ラーメンが食べたい、ラーメンが食べたい」と念じたと。
そして、その欲求はあるけども、ラーメンが食べられなかったと。他に食べる物もなかったと。そして、一日が過ぎ、二日目、目の前にラーメンが出されたとしようじゃないか。そして、それをすすって食べたと。
どうだ、君たちは。このときにこの空腹を感じていた人は歓喜すると思うか、しないと思うか。そうだ、そのとおり歓喜するよ。「わたしは食べた」と、「ラーメンを食べた」と。おいしいと思う。
ところがもし、ここに空腹な人がいたとして、その人は空腹について、何の心の働きも生じなかったとしよう。そして、一日が過ぎ、二日目にラーメンが出されてラーメンを食べたと。これはどうだ。「あ、わたしはラーメンを食べた」と。そこに歓喜は生じるか生じないか。
つまり、欲求というものは、その行為に至るときの心の状態をもうすでに表現しているということができると。
では、ここに修行者がいて、「自分は修行したいんだ、修行したいんだ、修行したいんだ」と考えてると。
あるいは、「ワークをしたいんだ、ワークをしたいんだ、ワークをしたいんだ」と考えてると。そして、「功徳を積むぞ、功徳を積むぞ」とふだんから考えてると。そういう人がいたとしよう。
そして、初めのうちは三時間、四時間しかワークをさしてもらえなかったと。あるいは功徳を積む時間がなかったと。あるいは瞑想する、修行をする時間がなかったと。
ところが、例えばその人が欲求していて、一日中瞑想できるようになったと。このとき、この人は喜ぶと思うか喜ばないと思うか、どうだ。
ところが、ここに修行者がいて、これは修行者というのは名ばかりで、ただ淡々と生きていると。何の欲求ももっていないと。そして、日々の生活に追われ、何となく一日が過ぎると。今日も一日ワークが終わったと。明日も一日のワークが終わったと。
この状態で、「はい、あなたは瞑想修行に入りなさい」と言ったとき、その人は瞑想修行において「うれしい、わたしは瞑想修行ができるんだ」という欲求、あるいは、喜びが出ると思うか。
しかし、わたしがこのような話をしたとしてもだ、君たちの中で理解できない人もいるかもしれない。
そして、これを本当に理解できるようになるためには、君たちが功徳を積み、そして日々の瞑想修行、その瞑想修行にいかに心を乗っけるかということだ。